嘉永五年 (1832) 閏二月、父彦也の病のために福井に帰って医を業とすることになり、二年ほどの遊学で大坂を離れることになった。
在坂中には、小浜 (オバマ) の梅田雲浜と会ったり、熊本の横井小楠 (1809〜69)
と面談したりしている。ことに小楠には心ひかれるところがあったようで、熊本に遊学したいとまで語っていた。 福井に帰ると、ほどなく父が没し、左内は家督を相続して二十五石五人扶持の藩医となった。ただ左内は、大坂遊学が思わぬ父の病で中断させられたために宿志を遂げていないとの思いが強く、学識を深めるためにと今度は江戸への遊学を願い出た。
嘉永七年 (18554) 二月、藩の許しを得て江戸へ出た左内は、はじめ坪井信良、のちには杉田成卿・戸塚静海に蘭学を学び、あわせて塩谷宕陰
(シオノヤトウイン) の門下に漢学を修めることとなった。この頃の精励によって、左内は英語、独語のまで通じたという。
安政二年 (1855) 、藩庁より帰国を命ぜられて福井に戻ると、医員を免ぜられて士分に列することとなり、御書院番に抜擢された。しかも十一月には学校制度取り調べということで、ふたたび江戸へ出ることになった。
先の上府の頃から、左内は諸藩の人々としきりに国事を語りあうようになっており、藤田東湖や西郷隆盛ともこの前後に面談している。 左内にとって、こうした名士や志士との交際の輪に加わり、天下国家を論ずることは、藩の重職中根雪江に宛てた書簡にいうように
「古今宇内無上之大快事」 であった。また、福井藩としても、世情騒然たる中、諸藩の人々と斡旋交渉の出来る人材は必要であった。 福井藩主は幕末の名君のい一人に数えられる松平春嶽
(1828〜90) である。春嶽は藩政改革に意を注ぐとともに学問の振興を図り、藩校明道館の刷新を考えていた。そこで、腹心の中根雪江とも相談をして左内を福井に呼び戻し、もっぱら明道館の改革に当らせることにした。
左内は藤田東湖が筆を執ったとされる水戸の 「弘道館記」 にならって 「明道館記」 を撰して藩校の精神の大網を掲げ、その上で教学に数学・蘭学を加えて実用を旨とする方針を打ち出し、留学生派遣の制度を整備するなど、種々の改革を押し進めていった。
これまで福井藩では崎門学が主流であった。もともと崎門派の吉田東篁に学び、懐中には常に浅見綱斎の 『靖献遺言』 を入れていたほどの左内であったが、崎門学の末流にはいたずらに空理空論をもてあそぶ弊があって、左内は経済
(ケイセイ) 実用の学によってその弊を嬌 (タ) めようとしたのである。
明道館の改革によって、左内はあらためて藩主春嶽の認めるところとなったようだ。ペリー来航以来、対外的な危機感が高まり、それにともなって国内に強力な政治指導者を必要とするとの認識から、本来ならば将軍家の私事である十三代将軍家定の後継者の選定が諸藩をも巻き込んだ問題になっていった。
春嶽はこの将軍継嗣問題では徳川慶喜を推す中心となって動いており、左内は春獄の命によって同じ慶喜派の薩摩藩と提携し、西郷隆盛らと連絡をとりあっては幕閣や大奥に工作を行うようになった。
安政五年 (1858) 正月、左内は新たに春嶽に命ぜられて、京都へ出向いて朝廷方面にも慶喜を後継とするための根回しをすることになった。京都では桃井伊織あるいは亮太郎と変名して公卿などの説得に当ったが、そうした工作も徳川慶福
(ヨシトミ) (のち家茂) を将軍後継に推す井伊直弼が四月に大老に就任することによって、すべてが水泡に帰してしまった。しかも、、左内の後ろ盾でである春嶽が七月には水戸の斉昭らとともに不時登城したことで幕府から隠居謹慎を命ぜられてしまい、左内も自決を覚悟したほどであったが、春嶽に慰留されて思いとどまった。
十月二十二日、にわかに江戸の左内の住まいに幕吏の捜索が及び、書類等を押収して去った。それ以後、約一年をかけて数回の尋問が町奉行所や評定所でなされただけで、一時左内は無罪放免となるだろうとの見通しを述べる者も多くあったが、大獄の嵐を逃れることは出来ず、安政六年
(1859) 十月二日には入獄、同七日に処刑となった。 左内としては、一個人として国事への感慨は別として、幕府に目をつけれれるような行動はすべて藩主春嶽の指示に従ったまでで、主君に忠義でこそあれ何ら指弾されるようなことはないはずだと考えていたであろう。しかも、井伊直弼と意見を異にしたとしても、春嶽の意図は宗家たる幕府の輔翼にあった。事実、幕府内でも死罪にするほどのことはないという判決で結論となりかかったところ、伊井大老一人の意見で処刑と決まったのだという。刑死のとき、左内二十六歳であった。
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