夜
函 嶺
を 踰 ゆ |
落
日 已
に沈 む西
嶺 の西
山 烟
眼 を遮
って路 高
低 す
癡 雲
乍 ち合
して月 将
に没 せんとし
苦 竹
叢 中
傀 鳥
啼 く |
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夜 踰 函 嶺 |
落日已沈西嶺西
山烟遮眼路高低 癡雲乍合月将没 苦竹叢中傀鳥啼 | |
安政五年 (1858) の作。二十五歳。
当時、十三代将軍家定の後嗣をめぐって、一橋慶喜を推す一派と紀州藩の徳川慶福 (のちの家茂) を推す一派とがあり、幕府を二分する争いとなっていた。
福井藩主松平春嶽は慶喜派の急先鋒で、この年正月、左内を京都に派遣して朝廷の意向を慶喜後継にもってゆくための公卿工作を担当させた。 この詩は上京の途上、箱根を過ぎるおりのもの。
函嶺は、中国の函谷関にちなんだ箱根山の漢風呼称。 | |