橋 本 左 内 漢 詩 集

「江戸漢詩選 (四) 志 士」 ヨ リ

(発行所:岩波書店 発行者:安江 良介 注者:坂田 新)

こう いん しゅう じゅう にち しょ かい
せい ちゅう きょう みだ れてふん ぷん

かく いえおも うて くに えず

いま がず きゅう せん こうこころざし

かん とう かか くしてよう ぶん
甲 寅 暮 秋 十 九 日 書 懐
雨声虫叫乱紛紛

孤客思家不耐聞

未継蓑裘先考志

寒燈尽挑読洋文
 
嘉永七年 (1854) 頃の作。二十一歳。
この年二月、左内は、江戸への遊学を藩庁に願い出て許され、三月のはじめから江戸暮らしをjはじめた。
暮秋は、九月。書懐は、感慨をしるす時の常用の詩題

雨の音に虫の鳴き音がしきりに入りまじる。ひとり異郷にある身には、ふるさとの家が思い出されて聞くにたえない。
亡き父上のお気持ちでは、私に蘭方医として大成してほしいと願っておられただろうが、いまだそれもできないまま、寒々とした部屋で灯心をかきあげ、またオランダ語の書物を読むのだ。

乱紛紛==紛紛は、入り乱れているさま。ここは表現上は雨声と虫叫とが入り乱れていると言いつつ、乱の字によって作者の思いもまた千々に乱れていることを寓する。
思家==この年の七月、福井の大火で故郷の家が焼けてしまった。母の梅尾は親戚の勧めを退け、左内に江戸での勉学を続けるようにと諭したので、左内は帰郷しなかった。それだけに家を案ずることがいっそう多かったであろう。
継蓑裘==父祖の業を受け継ぐこと。
寒燈==あたりに人気のない寒々としたさまをいうのに寒を用いる。
尽挑==挑は、灯心をかきあげて明るくすること。尽は、動詞に添えて強めるはたらきの辞。
洋文==欧米語の文章。主としてオランダ語をさすであろう。