橋 本 左 内 漢 詩 集

「江戸漢詩選 (四) 志 士」 ヨ リ

(発行所:岩波書店 発行者:安江 良介 注者:坂田 新)



ぐう せい
われ しょう よう れつひと

あやま ってじゅう けんこうむすう きんあずか

えい ぼう いずく んぞしゅう ごと きを

ばん ぽう なん じんとう ひん

さく つたこう はく てい さん ずと

いま ばん かん よう しんはく すを

みずかあわ れむ宿しゅく せき せい うんこころざし

らく ばく としてむな しく廿五にじゅうごはる
偶 成
我本斗?庸劣人

繆蒙重?預枢鈞

英謀争得周瑜似

晩封何羞ケ禹?

昨伝侯伯参廷議

今聴蛮艦泊要津

自憐宿昔星雲志

落寞空過廿五春

安政五年 (1858) の作。二十五歳。
安政三年 (1856) に江戸遊学を終えて福井に帰った左内は、抜擢されて藩校明道館の学制改革に当り、翌安政四年 (1857) には松平春嶽の侍読兼御用掛として藩主に側近く仕えることになった。当時、幕府は日米修好通商条約締結の可否と十三代将軍家定の後嗣問題と、内外二つの大きな課題をかかえており、徳川家の一門として幕府の安泰をはかろうとした春嶽は、この年二月、左内を京都へ派遣して皇室工作に動かせた。
左内は桃井伊織または亮太郎と変名して公卿の説得に回り、一橋慶喜を十四代将軍とする方向に宮中の意見をまとめようとした。
ほぼ二ヵ月にわたって京都で活動した後、四月半ばに江戸へもどった。
この詩は、その頃の作であろう。

私は本来いくらの器量もない人間で、たまたま誤まって御主君の目にとまり、重く用いられて枢機に参画するようになっただけだ。
人に抜きん出たはかりごとを行うことでは、呉の周瑜に似ても似つかない。だが、自分の立身を気にしないということだけは、後漢のケ禹が出世話に顔をしかめた逸話に較べても羞じるところはないつもりだ。
先頃日米条約の可否について、諸大名を幕府の議論に参加させ広く意見を聞くようにとの勅命が下されたという。最近では、外国の船が日本に来た場合に、わが国の主要な港に停泊することができるよう求めていると聞く。
かって私も星雲の志を抱いていた日のあったことを思うと、我ながら感慨である。国事多難の折に、何事も出来ぬままに空しく二十五歳の春を過ごすことは寂しいかぎりだ。

斗? (トショウ) ==斗は一斗のます、? (ショウ) は一斗二升が入る竹の器。 ともにさほどの分量も入らぬことから、人の器量の取るに足らぬことをいう。
庸劣==凡庸で人より劣る。
重? (ジュウケン) == 重んぜられ、目をかけられる。
預枢鈞==重要事に関与する。 枢は、枢機、事の大切なところ。鈞は、はかり、事を判断することに喩える。
周瑜==三国時代の呉の名将で、魏の曹操が大軍を率いて南下し、江東に進撃しようとした時、赤壁で迎え討って大勝利を得た。
晩封何羞ケ禹? (ヒン) ==晩封は、晩年になってから諸侯に封ぜられることで、今直ぐに枢要の地位につけてもらおうとの気持ちはないことをいう。ケ禹は、後漢建国初期の名臣で、光武帝劉秀の幕下に加わった時、立身出世のために来たのではないと言った ( 『後漢書』 ケ禹伝) 。句意は、自分の出世がいくら遅くなろうとかまわない、ケ禹は出世話に顔をしかめたというが、自分もそれに劣らない。
昨伝侯伯参廷議==老中の堀田正睦 (マサヨシ) が朝廷に日米修好通商条約の勅許を求めたところ、安政四年三月二十五日、広く諸大名の意見を徴すべしとの勅答が下った。侯伯は、侯爵や伯爵の暗いにある諸侯のことで、日本でいえば大名。
蛮艦泊要津==蛮艦は、外国の船。要津は、重要な港。この句は、幕府が日米和親条約につづいて結ぼうとしている修好通商条約において、アメリカが函館・横浜・長崎・新潟・神戸等の開港を要求していることが伝えられてきたことをいう。
星雲志==功名を立てようとする心。
落寞==ものさびしいさまをいう畳韻の語。落莫、落漠も同じ。