文政九年 (1826) 十月、東湖二十一歳、父に従って三度目の江戸住まいの時、伯父の藤田喜兵衛が病に篤
(アツ) しとの報せで急ぎ帰郷したが、伯父は間もなく没してしまい、傷心の東湖はやはり水戸に戻っていた父の勧めにより、十一月、四たび江戸に向かった。ところが、十一月の下旬になって、今度は父の病が篤いと伝えられ、またもや急ぎ帰郷する羽目になった。父幽谷は年の改まるのを待つことなく、十二月一日、五十一歳で生涯を終えた。
年が明けて文政十年 (1827) 正月、家督相続が許され、彰考館編集の任についた。二年後には若年ながら彰考館総裁の職務を代行するまでになったが、この頃、藩内では藩主後継者の決定をめぐって紛擾
(フンジョウ) を生じ、東湖は十月には藩庁の許しなく江戸へ出るなど思いきった行動に出て斉昭の襲封の実現を謀った。
やがて後継藩主は東湖らの願ったとおりに斉昭と決まったが、東湖自身は無断出府の罪によってしばらく逼塞を命ぜられる事となった。しかし、これ以後、東湖は斉昭の腹心として藩内に重きをなし、またその反面、斉昭の襲封を快く思っていなかった守旧派からは深く憎悪されることとなった。
逼塞はほどなく解かれ、東湖は郡奉行等を歴任した後、天保十一年 (1840) には江戸藩邸で斉昭の御側用人となった。当時、斉昭は全国の攘夷論者の間で、諸侯中の出色の存在であるとして崇敬を集めており、斉昭と一心同体の謀臣として東湖の名声も天下に知れわたるようになっていった。
同年正月、天保十四年 (1843) 五月と、陪臣の身ながら二度にわたって将軍に謁見を賜り、幕府の閣老水野忠邦、真田幸貫
(サナダ ユキツラ) らと面談して国事を論ずるなど、錚々たる天下の名士であった。 ところが、弘化元年 (1844)
五月、幕府は水戸藩の動きが幕府にとって危険であると感ずるようになり、藩内の藩斉昭派の策謀もあって、にわかに斉昭は致仕謹慎せよとの幕命が下り、東湖も役を免ぜられて蟄居させられることとなった。東湖の蟄居は弘化三年
(1846) 十二月まで二年半以上に及ぶが、この間に 『回天詩史』 の執筆がなされ、また後年の志士たちが好んで高吟することになる
「文天祥の正気の歌に和す」 が作られた。 南宋の滅亡時に節義を全うして死に就いた文天祥の事迹は、すでに浅見?斎 (ケイサイ)
の 『靖献遺言 (セイケンイゴン) 』 によって人々に知られていたばかりか、この後、現実に獄舎に繋留
(ケイリュウ) され、なかには刑死に直面することとなった志士たちにとって、 「正気」 こそが自らの行動を悔いなきものにしてくれる魔法の語である以上、東湖
「文天祥の正気の歌に和す」 が喜び迎えられる状況はすっかり整っていたといえよう。しかも、全篇が当時流行の尊皇攘夷論に貫かれているばかりか、その情趣は世人の多くが共通の読書体験としてきた頼山陽の
『日本外史』 『日本楽譜』 等に通ずるところもあって、たちまち世の評判となって広がっていった。 慶応三年 (1867)
には詩中に歌い込まれた日本の故事を説明しつつ解釈を下した 『正気歌俗解』 という国字解ものまでが刊行されており、その流布のさまを想い描くことができよう。
ただし、 「文天祥の正気の歌に和す」 があまりにも有名になってしまったがために、東湖の詩風をその一篇だけから推しはかることになるとすれば、それは大きな誤解となりかねない。東湖の作詩の全体から言えば、むしろ
「文天祥の正気の歌に和す」 は措辞 (ソジ) も情調も他の多くの東湖詩とは色合いを異にしていて、やはり特殊な状況下でのやや特殊な作品と言わなければならない。
弘化三年 (1846) 十二月、東湖は蟄居を解かれて水戸に帰るが、引き続いて蟄居謹慎を命ぜられており、謹慎が解かれるのは嘉永二年
(1849) 閏二月のことであった。その三月には幕府が前藩主斉昭に藩政に関与してよい事を沙汰しており、藩内の空気も変化しつつあったのであろう。ことに、嘉永六年
(1853) 六月にペリーが来航すると、幕府としても斉昭に意見を聞きたいということになり、正式に幕府の外交に参与するようになった。それにつれて、同年七月には東湖も海岸防御用向ということで江戸へ呼ばれ、ふたたび国事に奔走する事が出来るようになった。しかし、それもわずか二年あまりで、安政二年
(1855) 十月二日夜半、関東地方一帯を襲った安政大地震のために江戸の藩邸官舎で屋梁 (オクリョウ)
の下敷きになって圧死した。時に東湖五十一歳であった。 |