三決死矣==矣は、感慨を込めて言い切る終尾詞。東湖が死を決した三度とは、 |
一、文政七年 (1824、東湖十九歳)
、水戸藩内大津村にて英国人を襲撃しようとした時。 |
二、文政十二年 (1829、二十四歳)
藩主擁立問題で藩内が割れ、東湖等が斉昭を立てんとした時。 |
三、本詩が作られる天保十五年の斉昭謹慎事件の時 |
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であると、 『回天詩史』 に自ら言う。
刀水== 『回天詩史』 では利根川を 「刀根之水」 と漢訳しており、それをさらに略称したもの。
五乞閑地==閑地は、世間を離れて静に隠棲する場所。東湖が五たび職を退く事を願ったが、かなえられなかったというのは、
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一、文政十二年 (1829、二十四歳)
、彰考館において若年ながら総裁の職務を代行するように命ぜられた時、館の改革を進言するとともに辞職を申し出たが、かえって激職の郡奉行に転ずることになった。 |
二、天保三年 (1832、二十七歳)
郡奉行を退くつもりで、病気と称して出仕しないでいたら、江戸藩邸の通事 (小姓頭取として藩主に近侍する)
にされてしまった。 |
三、天保十一年
(1840、三十五歳) 藩邸内の激務からいったん史館編修という比較的静閑の職に移ることが許されただ、すぐに側用人に抜擢された。 |
四、天保十三年 (1842、三十七歳)
と、 |
五、天保十四年 (1843、三十八歳)
、斉昭の側近として仕える中、東湖に反感を抱く一派との間で種々の確執を生じ、藩内諸役の人事も揺れ動いて、時に東湖の意見の入れられぬこともあったため、辞職を願い出たが慰留された。 |
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三十九年==本詩を作った時まで三十九年間の生涯。 |
七処徙==これまで東湖が居所としてきた地は、 |
一、幼時、水戸梅巷の父幽谷の屋敷。 |
二、三歳、田見小路の父 (当時浜田郡奉行)
の官舎。 |
三、文化七年 (1810)、梅巷の邸に帰って十九年間。 |
四、郡奉行となって水戸城の西六里の八田に移る。 |
五、数ヵ月後、田見小路の官舎に入る。 |
六、江戸詰めとなり、小石川の藩邸へ。 |
七、天保十一年 (1840)
春、藩主帰藩にともなって水戸の梅巷の屋敷へ戻る。 |
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邦家==くに、国家の意であるが、
『回天詩史』 を参照すると、水戸藩をさしている。
隆替==栄えることと衰えること。
得失==得意と失意。成功と失敗。
徒爾==むなしく、無意味なこと。
自驚塵垢盈皮膚==満身が塵と垢にまみれているとは、幽囚となっての生活をいう。
嫖姚==前漢の将軍霍去病 (カクキョヘイ) 。武帝の時代に匈奴を討伐して大功を立てた。
定遠==後漢の班超。三十余年にわたって西域諸国を平定服属させ、その功によって定遠侯に任ぜられた。
丘明==左丘明。孔子が編んだとされる 『春秋』 をもとに、大義名分がより明らかになるようにと詳細な背後の事実を書き加え、
『春秋左氏伝』 を作ったとされる。
馬遷==漢の司馬遷。
苟==もし。強い仮定法の言い方。
奚==何と同じ、反語の辞。
斃而已==たおれて死んで、はじめて事の終わりとなる。死ぬまで努めて止まぬこと。
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