藤 田 東 湖 漢 詩 集

「江戸漢詩選 (四) 志 士」 ヨ リ

(発行所:岩波書店 発行者:安江 良介 注者:坂田 新)

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序 (一) (二) (三)
和文天祥正気歌  (一) (二) (三) (四) (五) (六) (七)

弘化二年 (1845) の作。四十歳。
江戸小梅村 (東京都墨田区) の水戸藩下屋敷で幽閉生活を送る中での詩で、東湖の代表作とされる。
和とは、通常は別人の詩に韻を合わせて
(同じ韻字もしくは同じ韻目に属する字を用いて) 詩を作ることをいい、詩人間で詩を贈答するおりに行われる他、敬愛する古人の作品に和することもある。ただし、この藤田東湖の和詩は、詩全体の構成において文天祥 「正気の歌」 を踏襲する事はしているものの、押韻では文天祥の押韻とは全く関係なく独自な展開をし、したがって一詩の句数も、文天祥の作は六十句であるのに対して、本詩は七十四句となっている。もっとも広い意味での唱和の詩ということになる。
文天祥は南宋末の宰相。二十歳で科挙に第一の成績で合格、その後の官僚としての生活は南下する蒙古軍 (元) との抗戦に費やされた。
次々と南宋の拠点が陥落してゆく中、勤皇の兵を募って各地に転戦したが、1278年、蒙古軍に捕らえられた。元では南宋との最後の決戦を控えた崖山 (ガイザン) (広東省新会県の南) へ連行して南宋軍に降伏を勧める文章を書くことを要求したが、堅く拒否した。南宋滅亡後、元に仕える事も拒み、大都 (北京) で獄中に囚えられること三年、ついに死刑となった (1283年、四十七歳) 。 「正気の歌」 は、その獄中での作。
この文天祥は、岳飛とともに南宋滅亡時に節義を全うした殉国の英雄として、中国では今日に至るまで慕われ続けており、その詩文は 『文文山集」 としてまとめられている。
日本でとりわけ広くその事蹟が知られるようになるのは、幕末の志士にもよく読まれていた浅見絅斎 (ケイサイ) 『靖献遺言 (セイケンイゴン) 』 の巻五に取り上げられていることによる影響が大きいであろう。
詩の構成は文天祥の 「正気の歌」 をほぼ踏襲して、中間には日本の歴史を通じて正気発現の事例を列挙する形を取る。
はじめに添えられた長文の序とともに数節に分けて訳注する。