藤 田 東 湖 漢 詩 集

「江戸漢詩選 (四) 志 士」 ヨ リ

(発行所:岩波書店 発行者:安江 良介 注者:坂田 新)


(/rp>たちま(/rp>たつ(/rp>くち(/rp>けん(/rp>ふる
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忽揮龍口剣
虜使頭足分
忽起西海颶
怒濤殲妖氛
志賀月明夜
陽為鳳輦巡
芳野戦酣日
又代帝子屯

元が無礼な通告をして来た時には、正気がたちまち発現して鎌倉龍口にて忽必烈 (フビライ) の使者を斬り捨て、ために使者の五体はばらばらとなった。
また、いよいよ元軍が来寇した時には、たちまち戦場となった西海に台風を巻き起こし、怒涛は敵船を呑み込んで胡賊の妖気を殲滅した。
北条高時の軍が都に後醍醐天皇を攻めた時には、藤原帥賢 (モロカタ) は志賀の浦に輝く月を眺めつつ、天子の御輦 (ミクルマ) が比叡山に巡幸したと見せかけて叡山の僧徒を感奮させた。
また、吉野山での激戦の日には、正気の現れは村上義光 (ヨシテル) が後醍醐天皇の皇子護良 (モリナガ) 親王の身代わりとなって危難を救う事にもなった。

龍口==鎌倉片瀬海岸の刑場のあった地。建治元年 (1275) 、ここで元の忽必烈の使者を処刑した。
虜使==元の使者。虜は、異民族を罵っていう語。
頭足分==頭と足とが斬られて胴体から離れる。
西海颶==西海は、元軍の来寇した玄海灘。颶は、暴風。
妖氛==妖気。ここは元 (蒙古族) の侵攻によってもたらされた悪気をいう。
志賀月明夜==元弘元年 (1331) 、北条高時の軍が京都に攻め入った時、後醍醐天皇は当初比叡山に巡幸の予定であったが、にわかに南都奈良から笠置山に落ちることになった。ただ、味方となる比叡山の僧徒が巡幸なしと知って失望する事を恐れ、大納言藤原帥賢 (モロタカ) に偽りの鳳輦 (天子の車) を仕立てて比叡山に赴かせた。叡山では天皇の巡幸と信じて勇み立ち、唐崎の合戦でいったんは北条方を打ち破った ( 『太平記』 巻二、帥賢登山の事) 。藤原帥賢は叡山への途上、琵琶湖の月を眺めて、 「思ふこと なくてぞ見まし ほのぼもと 有明の月の 志賀の浦波」 と詠んだ。 ( 『増鏡』 むら時雨、 『新葉和歌集』 雑歌上) 。この歌から字面を取って句を仕立てている。
陽==佯に同じで、いつわること。
鳳輦==屋根に黄金作りの鳳凰を飾った天子の乗物。
代帝子屯==帝子は、後醍醐天皇の皇子護良親王。屯は、 『易経』 の六十四卦の一つで、険難あって行き悩む象。元弘三年 (1333) 、護良親王は吉野山の戦いで北条方に追い詰められ、死を覚悟して諸将とも別宴を張るにいたったが、村上義光が身代わりとなって敵軍の前に親王の甲冑をまとって切腹し、その間に親王を落ち延びさせた ( 『太平記』 巻七、吉野城軍の事)