藤 田 東 湖 漢 詩 集

「江戸漢詩選 (四) 志 士」 ヨ リ

(発行所:岩波書店 発行者:安江 良介 注者:坂田 新)

和文天祥正気歌?序 (一)
彪年八九歳、受文天祥正気歌於先君子、
先君子毎誦之、引盃撃節、慷慨奮発、
談説正気之所以塞天地、必推本之於忠孝大節、
然後止。距今三十餘年。
凡古人詩文、少時所誦、十忘七八。
至於天祥歌、則歴歴暗記、不遺一字。
而先君子言容、宛然猶在心目。
彪性善病。去歳従公駕而来也、
方患感冒、力疾上途。
及公獲罪、彪亦就禁錮。
風窓雨室、湿邪交侵、菲衣疏食、飢寒並至。
其辛楚艱苦、常人所難堪。
而宿痾頓癒、体気頻佳。
睥睨宇宙、叨与古人相期者、
蓋資於天祥歌為多
(/rp>ぶん (/rp>てん (/rp>しょう(/rp>せい (/rp>(/rp>うた(/rp> す。(/rp>なら びに(/rp>じょ (一)
(/rp>ひょう(/rp>とし (/rp>はち (/rp> (/rp>さい(/rp>ぶん (/rp>てん (/rp>しょう(/rp>せい (/rp>(/rp>うた(/rp>せん (/rp>くん (/rp> に受く。
(/rp>せん (/rp>くん (/rp>(/rp>これ(/rp>しょう する(/rp>ごと に、(/rp>さかずき(/rp>(/rp>せつ(/rp> ち、(/rp>こう (/rp>がい (/rp>ふん (/rp>ぱつ し、
(/rp>せい (/rp>(/rp>てん (/rp>(/rp> つる所以(/rp>ゆえ ん(/rp>だん (/rp>せつ して、(/rp>かなら(/rp>これ(/rp>ちゅう (/rp>こう(/rp>たい (/rp>せつ(/rp>すい (/rp>ほん し、
(/rp>しか(/rp>のち (/rp> む。(/rp>いま(/rp>へだ つること(/rp>さん (/rp>じゅう (/rp> (/rp>ねん なり。
(/rp>およ(/rp> (/rp>じん(/rp> (/rp>ぶん(/rp>しょう (/rp> (/rp>しょう する(/rp>ところ(/rp>じゅう(/rp>しち (/rp>はち(/rp>わす る。
(/rp>てん (/rp>しょう(/rp>うた(/rp>いた りては、(/rp>すなわ(/rp>れき (/rp>れき として(/rp>あん (/rp> し、(/rp>いち (/rp>(/rp>わす れず。
(/rp>しか して(/rp>せん<(/rp>くん (/rp>(/rp>げん (/rp>よう(/rp>えん (/rp>ぜん として(/rp>(/rp>しん (/rp>もく(/rp> り。
(/rp>ひょう(/rp>せい (/rp>(/rp> む。(/rp>(/rp>とし(/rp>こう(/rp>(/rp>したが いて(/rp> たるや、
(/rp>まさ(/rp>かん (/rp>ぼう(/rp>わずら うも、(/rp>やまい(/rp>つと めて(/rp>みち(/rp>のぼ る。
(/rp>こう(/rp>つみ(/rp> るに(/rp>およ びて、(/rp>ひょう(/rp>(/rp>きん (/rp>(/rp> く。
(/rp>ふう (/rp>そう (/rp> (/rp>しつ湿(/rp>しつ (/rp>じゃ (/rp>こも (/rp>ごも (/rp>おか し、(/rp> (/rp> (/rp> (/rp>(/rp> (/rp>かん (/rp>なら(/rp>いた る。
(/rp>(/rp>しん (/rp> (/rp>かん (/rp>(/rp>じょう (/rp>じん(/rp>(/rp>がた しとする(/rp>ところ なり。
(/rp>しか るに宿(/rp>しゅく (/rp> (/rp>とみ(/rp> え、(/rp>たい (/rp> (/rp>すこぶ(/rp> なり。
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私は八九歳の時、文天祥の 「正気の歌」 を亡き父上から教えられた。父上がこの詩を吟ずるおりには、いつも酒杯を手にして、一方で拍子を取り、悲憤慷慨していたものだ。そして、正気が天地の間に充満するわけを説き、その正気の源は忠孝の大節に由来する事に及んで、話が終るのであった。今から三十数年も昔の事になる。だいたい、子供の頃に読んでいた古人の詩文は、十のうち七八を忘れてしまっているが、文天祥の 「正気の歌」 だけははっきりと覚えていて、一字も忘れていない。
しかも当時の父上の言葉や容貌までが、そのままに今も胸に留まり目に浮ぶ。
自分は生来病気がちで、去年、水戸公 (斉昭) のお供をして江戸へ上る時にも、ちょうど感冒にかかっていたが、病む身をつとめて旅立ったのである。やがて水戸公が幕府のお咎めを受けることになってしまい、私もまた閉門蟄居の身となった。
風が吹き込み雨が降り込む居室は、じめじめとして澱んだ空気が入り込んで、粗衣粗食で過ごす身には飢えと寒さが迫り来る。その艱難辛苦は、常人の堪え難いところである。
ところが、年来の病はにわかに癒えて、体調はすこぶるよい。古今東西を昂然と睨み据えて、吾が輩は古の人傑にも匹敵するのではないかと愚かにうぬぼれたりもするのは、思えば文天祥の歌を吟誦していたお蔭であるのかもしれない。

彪==藤田東湖の名。
先君子==
亡くなった父。東湖の父藤田幽谷は水戸藩の儒者で、彰考館総裁をつとめた。文政九年 (1826) 没、五十三歳。
撃節==節は楽器の一種で、古くこれを撃って奏楽の拍子をとった。ここでは実際に節を撃つわけではなく、拍子をとりながら 「正気の歌」 を朗吟するさま。
慷慨奮発==感情の激することをいう。いたみなげき、ふるいたつ。
塞天地==塞は、充満すること。文天祥の用いる 「正気」 は、 「正気に歌」 序に 「况んや浩然たる者は、天地の正気なるえおや」 と言うように、 『孟子』 公孫丑上の 「浩然の気」 にあたる。それが天地に充満することは、孟子自身が 「其の気たるや、至大至剛にして直く、養いて害 (ソコ) なうこと無くんば、即ち天地の間に塞 (ミ) つ」 と説明している。
推本==根源を推定する。 歴歴==はっきりと。
不遺==
遺は、遺忘、忘れること。  宛然==さながら、その時のままに。
去歳従公駕而来==去歳は、去年、弘化元年 (1844) 。公は水戸藩主徳川斉昭。駕は、車馬、乗物。幕府から召喚された斉昭に付き従って江戸へ出てきたこと。
力疾==病気であるのに無理をおして、
及公獲罪==幕府は水戸藩が全国の尊皇攘夷運動の策源地となっていることを危惧し、斉昭を幕府に異心ありと見なして藩主隠退を命じた。
禁錮==閉門蟄居の刑。
風窓雨室==以下の幽閉の記述は、文天祥 「正気の歌」 序での次のような描写にあい応ずる。

「私は北方に囚われて以来、一土牢に繋がれた。間口は八尺、奥行きは四尋ほど、低く小さな扉が一つきりで、窓も名ばかり、床は低く汚れて、薄暗いところである。この頃の夏の日ともなれば、あらゆる邪気が集まって来る。雨水が四方から集まって床几を浮かせる時には、水気が立ちこめる。濡れた泥土が半乾きで蒸してくると、土気が立ちこめる。晴れ上がって暑くなっても、風がまったく通らぬから、日気が立ちこめる。箸先で飯を炊いて酷気をいよいよ烈しくすれば、火気が立ちこめる。隣の倉で腐った穀物が積み重なり、腐臭が迫って米気が立ちこめる。夷狄が多数やって来れば生臭く汚らわしく、人気が立ちこめる。糞尿、死屍、腐鼠など異臭がまじわって穢気が立ちこめる」。
東湖の場合、文天祥ほどの惨状ではないが、痛苦の気分はやや共通すると言いたいのであろう。
辛楚==辛酸と苦痛。
宿痾頓癒==積年の病躯であるのに、かえって体調が好くなったというのは、文天祥 「正気の歌」 序に、
「こうした多くの邪気の中では、病気にならぬ者はまず居ないであろう。ところが、私はひ弱な体で、ここに二年も起居したのである」
と言うのに、あい応ずる。文天祥は、それが出来たのは 「浩然の気」 「天地の正気」 によるものだと言っており、東湖にもその気概があったことを語るものである。
睥睨宇宙==睥睨は、にらみまわす。憚ることもなく、卑屈になることもないのをいう。 宇宙は、古今の時間を宇といい、上下四方の空間を宙という。
叨==みだりに。自分はその分ではないのだが、と謙遜して言う語。
相期==心が通じ合って同類であると思う。