藤 田 東 湖 漢 詩 集

「江戸漢詩選 (四) 志 士」 ヨ リ

(発行所:岩波書店 発行者:安江 良介 注者:坂田 新)


(/rp>ある いは(/rp>かま (/rp>くら(/rp>くつ(/rp>とう
(/rp>ゆう (/rp>ふん (/rp>まさ(/rp>うん(/rp>うん たり
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(/rp>ある いは(/rp>ふし (/rp> (/rp>じょう(/rp>まも
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或投鎌倉窟
憂憤正??
或伴桜井駅
遺訓何慇懃
或殉天目山
幽囚不忘君
或守伏見城
一身当万軍

正気は、時には鎌倉の土窟に投ぜられて最期を迎える護良親王の思いに中に凝集し、親王は国の前途を憂憤して悲痛をきわめた。
楠木正成は兵庫の桜井の駅まで子の正行を伴ってきたが、ここでの合戦に死を覚悟して子の正行には故郷の河内に帰ることを命じ、教え諭す言葉はいともねんごろであった。
戦国時代の末には甲斐の武田勝頼が戦い敗れて天目山に追い詰められてゆく時、勝頼に疎まれ幽閉されていた小宮山内膳が、主君を忘れることなく駆けつけて勝頼に殉じようとし、ついに戦死したこともあった。
また、石田三成が徳川家康を討たんと挙兵した時、徳川の老臣鳥居元忠は僅か一千八百名で伏見城を守っていたが、押し寄せる三万の大坂勢を迎えて、みごとに十日間を支えきって討ち死にした。
一人の身で万余の敵に当たる働きであった。
すべて正気の発露である。

投鎌倉窟==建武の中興 (1334) がひとまず成って以後、足利尊氏と護良親王の間に対立が生じ、尊氏の讒言によって親王は捕らえられ、鎌倉東光寺に幽閉された ( 『太平記』 巻十二、兵部卿親王流刑の事) やがて建武二年 (1335) 七月、北条氏の残党が鎌倉に攻め入った時、退去する守将足利直義 (尊氏の弟) の命によって殺害された。
?? (ウンウン)==憂えるさま。
伴桜井駅==延元元年 (1336) 五月、九州から東上して都へ攻め入ろうとする足利尊氏軍を防ぐため楠木正成は五百余騎にて兵庫へ向かった。この時、十一歳の嫡子正行も同行していたが、このたびの合戦で死を覚悟していた正成は、桜井の駅まで来ると、正行には故郷の河内に帰るように言いつけ、この後の正行がいかに忠孝をつくすべきかを詢々と諭した ( 『太平記』 巻十六、正成兵庫に下向の事) 。正行と分かれた後、正成は湊川の合戦で討ち死にした。
遺訓==死後に言い残す教え。
慇懃==丁寧、ねんごろなさま。
殉天目山==天目山は甲州 (山梨県) の地名。天正十年 (1582) 三月、織田、徳川連合軍に追い詰められた武田勝頼は天目山の南方田野 (タノ) (東山梨県大和村) での最後の合戦にも敗れ、一族とともに自害して甲斐武田氏は滅亡した。殉は、死者の跡を追って死ぬこと。また、命を投げ出して人に尽くすこと。
幽囚不忘君==甲斐武田氏の臣小宮山内膳は重臣の長坂釣閑らと不和であったことから讒言され、禄を没収されて貧窮に陥っていたが、主君勝頼の敗走を聞いて天目山の合戦に駆けつけ勝頼の最期を護って討ち死にをした ( 『甲陽軍鑑』 巻二十第五十七品、など) 。幽囚は、罪を得て蟄居している者。
守伏見城==慶長五年 (1600) 六月、上杉景勝が徳川家康討伐の兵を会津に挙げ、当時伏見にいた家康は諸将を率いて東上し、伏見城には鳥居元忠を主将として千八百名だけを守りに残した。やがて大阪から石田三成が西軍をまとめて上杉軍に呼応し、先ず真っ先に三万余の兵力で伏見城を攻めた。この時、鳥居元忠は七月十九日から八月十日まで寡兵を指揮して城を持ちこたえ、徳川方の主力が関東から反転して西軍を関ヶ原で迎撃する日時を稼ぐことが出来た ( 『常山紀談』 巻十四、伏見落城の事、など)