ひめゆりの乙女たち
朝日新聞企画部(東京本社)編ヨリ
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第三外科壕の最後
米須の概算外科壕は擂り鉢形の壕で、ななめにかかる二段のはしごを降りると、壕の底は深く広がり、たこの足のように一つ一つの穴がしだいに細く洞窟の中へとくい込んでいった。ここに軍医、看護婦、衛生兵らとともにひめゆり学徒の先生、生徒45名が入り、べつに一般避難民を加え約百人ほどが身動き出来ぬほどに座っていた。
解散命令を受けた学徒たちは、19日未明の脱出をきめ、その前夜、壕入り口に近い広がりのある場所で分散会をおこなった。みんな制服に着替え、胸には桜(師範生)白ゆり(一高女生)のバッジをつけ、乾パンと牛肉の缶詰による”最後の晩さん”もくばられた。東風平先生が「海ゆかば」を歌い、先生作曲の「別れの曲」が合唱された。予科三年、上間道子さんの浪曲「更科の別れ」も演じられ、じょうじょうとつづく調べにみんな涙ぐんだ。
分散会をすませたあとの明け方、いよいよ壕を出ようとしたとき、米軍のガス弾が投げ込まれた。白煙がたちこめ、一寸先も見えなくなった・・・・・・。

「苦しいよう!殺して、殺して!」・・・・・・(宮良ルリさん=旧姓守下=の証言)
”ドカン”ものすごい爆発音とともに、真っ白い煙がもうもうと立ちこめ、なにも見えません。
「ガスだ! ガスだ!」
「水はどこ! 水!」
そのうち、あちこちから、
「お母さーん、お父さーん」
「先生! 苦しいよう! 殺して! 殺して!」
本当に生き地獄です。わたしも叫びつづけました。
「水! 水!」
となりの又吉キヨさん(予科二年)がうめいています。
「苦しいよう、姉さん」
「しっかりしてよ」
「姉さんお先にね。ああ苦しい」
その声を聞いて、わたしは死んでたまるか、生きるのだ、生きるのだ、絶対に死なない、と自分に言い聞かせていたのでしたが・・・・・いつの間にか意識を失っていました。
渇きと飢えに意識がもどり、おおいかぶさる学友の屍を押しのけました。やっと頭をあげて、うめくように叫んだのです。
「水! 水!」
玉代勢秀文先生がかけ寄ってこられ、わたしの肩をたたいてよろこんでくださった。
「守下、生きていたのか、よかった・・・・・」
先生のくださった水を飲みましたが、わたしにはなにがなんだかわかりませんでした。
壕入り口近くで大城信子さん、山城信子さんがわたしをあなのあくほど見ています。亡霊だと思って、ぞっとしていたのでした。
「みんな死んだのよ、今日で三日目よ」
そう言われても、神経はまひしているのでしょう、悲しくもなく、涙もでませんでした。もぬけのからの人間になってしまったのです。

先生・生徒が自決<喜屋武・米須の海岸>

うさぎおいし・・・・・を歌って・・・・・・(宮城=旧姓兼城=喜久子サンの証言)
わたしはグループの先生三人、生徒十二人とで、伊原の第一外科壕を出ました。すぐ米軍の猛攻撃にあい、先生二人行方不明、生徒一人即死、二人が負傷しました。空から海から陸上から、袋のねずみと同じで、死人やけが人の上をはいずり回りながら、ようやく喜屋武岬のアダンのなかにたどりつきました。
しかし、ここからも火炎放射の炎にいぶり出され、ついに絶壁に追いつめられてしまいました。下を見ると、波が白いしぶきを上げ、海上には無数の艦船が浮かんでいました。もはや前にも後ろにも行くことができません。この6月20日の晩、みんないっしょに自決することを話し合いました。的につかまると、どんなことをされるかわからないとしか知らされていなかったわたしたちには、もはや死ぬことしか考えることができなかったのです。誰からともなく「故郷の歌」が口をついて出ました。
”うさぎおいしかの山 こぶな釣りしかの川・・・・・”
次の日の21日、うそのように静まりかえる絶壁の上に、とつぜん、銃声がひびき、四人が即死しました。わたしと比嘉啓子さんはとっさにジャングルに飛び込みましたが、十数人の米兵に銃をつきつけられ、わたしは握りしめていた手榴弾を地面に置きました。岩かげをのぞくと、平良松四郎先生以下学友十人は、自決されていました。鮮血は岩を染め、そのあまりにいたましい姿に、二人は泣き崩れたのでした。

白梅学徒隊・瑞泉学徒隊・梯梧学徒隊・積徳学徒隊
ひめゆり学徒隊とともに、ほかの五つの女学校生徒による看護活動も目ざましく、また、少なくない犠牲を出していることを忘れてなならないだろう。ひめゆり学徒隊に先がけて看護訓練を受け、より前線に近く、少ない人数にもかかわらず病院壕で過酷な任務を担わされた学徒もいる。
昭和20年1月、県立第三高女の上級生10名がトップを切って看護教育を受け、3月に沖縄陸軍病院へ入隊した。 三高女は、北部・名護にあった関係上、学徒はのち本部に駐屯する宇土部隊へ配属、犠牲者はさいわい少なかった。県立第二高女(白梅学徒隊)と私立積徳高女(積徳学徒隊)の両校は、2月から訓練を受け、3月には正式に従軍看護婦として入隊、第二十四師団の第一・二野戦病院へ配属された。さらに県立首里高女(瑞泉学徒隊)は3月、私立昭和高女(瑞泉学徒隊)は4月、ともに第六十二師団野戦病院へ配属された。
男子学徒隊===鉄血勤王隊
沖縄師範学校(男子部)と県下中等学校9校の生徒たちは、昭和20年3月、日本軍司令部の命令を受けて鉄血勤王隊に組織され、入隊した。県立第一中学校では入隊に先がけ371人の隊員全員が遺書を書き、遺髪を残した。学徒兵は学校別に指定部隊に入隊、陸軍二等兵に任ぜられた。
4月1日に米軍が上陸すると、地理に明るく、若さの敏速さを活用されて、学徒隊員は兵士同様、あらゆる戦闘任務を課せられた。下級生は通信任務や食糧運搬に従事し、上級生は弾薬運搬から、斬込み攻撃や戦車への肉弾攻撃に至るまで、日夜、戦場を駆けめぐった。
首里攻防戦に敗れた日本軍とともに、学徒隊の多くは南部の洞窟陣地へ移動した。6月20日戦後、学徒隊は解散、北部へ脱出せよ、との命令を受けたが、海と空から、また火炎放射や爆弾の息つく間もない攻撃によって戦死、自決する者も少なくなかった。犠牲者は県立工業学校の85人、従軍学徒中90パーセントの戦死率を頭に、男子学徒計890人が帰らぬ人となった。