ひめゆりの乙女たち
朝日新聞企画部(東京本社)編ヨリ
P-01P-02P-03P-04
学徒隊南へ
日米両軍による首里攻防の死闘がつづき、首里の指令部の陥落も迫った5月25日、南風原陸軍病院は南部、摩文仁へ退去することが決まった。歩ける患者だけを引き連れ、重症患者は壕に残すことになった。
ひめゆり学徒隊自身も、それまでに生徒8名の戦死者と多くの負傷者を出しており、その負傷者の移動は大問題だった。防衛隊員の助力は頼みとならず、生徒、先生が最後まで連れだそうと必死に努力したが、それも実らず、渡嘉敷良子さん、猪俣キヨさん、石垣実俊先生の三人はついに壕へ残さねばならなかった。
移動は夜、たえず炸裂する砲弾、明滅する照明弾の中で、泥まみれになっておこなわれた。生徒たちは患者に肩をかし手を引き、また、包帯をちぎって道しるべを残しながら進んだ。張りつめた心、疲れ切った心身、この夜の移動ほど辛いものはなかった、と後に述べている生徒もいる。陸軍病院別室にいた学徒たちも、夜通し歩いて、それぞれに南部自然壕に向かった。

運を天に任せて・・・・・・(本村=旧姓佐久川=つるサンの証言)
わたしたち病院本部勤務の生徒12名は、はじめ3名の負傷者を連れて移動する予定でいたが、出発の時新たに一高女三年生4、5名を、ともなうことになりました。急造の担架に3名を乗せ、ガス弾にあたって脳症を起こした一高女生をいたわりながら、防衛隊員6名とともに、病院壕を出ました。第一外科の負傷者を待っていて出発が大きくずれ、夜8時ごろだったと思います。本部の兵隊たちはすでに出発したあとで、降り続く雨と着弾の中を急ぎました。
二ヶ月の壕生活でみんな体力を消耗しており、担架を運ぶ身体は浮き、足はふらふらし、よくすべります。四人で担ぐ担架は負傷者に掛けた毛布と丹前で重さを増し、雨もしみて肩に食い込んできます。道には弾痕が無数にあり、大きな弾痕にさしかかったとき、一人が足をすべらせてしまい、ひきつれて四人もろともころんだうえ、担架の上の学友をふりおとしてしまうようなこともありました。
着弾が激しく、至近弾が目の前で炸裂したりします。担架もろとも泥沼の上に伏せる間もなく、大きな破片が飛んできます。運び手は伏せることもできますが、負傷者は身をかわすこともできません。運を天に任せて空ばかりみているその心細さ・・・・・。
道には屍がいくつもころがり、死馬も倒れたままです。防衛兵をふくめて、だれも地理にくわしくなく、迷いだずねながら、東風平、高嶺、与座岳をへて、真壁へ真壁へと歩きました。

命がけの飯あげ、連絡
夜を徹して歩きついたひめゆり学徒隊は、病院従事者とわずかな患者とともに、五つの壕に配置された。いずれも鍾乳洞の自然壕で、大小、深浅それぞれで、梅雨は上がったがしずくはたえず落ち、ろうそくの火が細くゆらいでいた。
山城の壕に病院本部が置かれ、各壕とは直接距離で1キロか1.5キロ、毎日の飯あげと連絡とは、必死の作業だった。
糸州の第二外科壕は米軍の馬乗り攻撃にあい(6月18日夜)、学徒隊は夜の暗闇に乗じてかろうじて脱出した。馬乗りされ、米軍の降伏勧告があったとき、応ずれば背後から日本軍に撃たれ、応ぜず抵抗すれば米軍の爆弾投下や火炎放射で殺されるといった毫もあちこちであった。
山城の本部壕では広池病院長が戦死(6月18日)、学徒10名は分散がきまった。みんなが第三外科壕行きを希望したが、公平にわける方法がなく、じゃんけんがおこなわれた。これはそのまま生死をわけるじゃんけんとなってしまった。

みんなに見守られて・・・・・・(照屋=旧姓宮城=菊子サンの証言)

私は学友、兵士とともに、糸州の第二外科壕から山城の本部壕へ伝令に出ました。小銃弾の飛んでくるなかを走りに走り、息を切らして壕に駆け込んだとき、そこは直撃弾のあとの修羅場でした。生徒、看護婦、衛生兵らが即死、あるいは重傷を負い、壕の壁には血と肉が飛び散っていました。応急手当で20分ぐらいたったでしょうか、西平英夫先生がこられ、
「伝令か、ご苦労だったね。安座間がやられた。あといくらももたないかもしれない。早くいってやれ」
とおっしゃる。おどろいて奥へ進むと、本部、各壕の伝令など、十五、六名の生徒が安座晶子さん(予科二年)を囲んでいました。晶子さんは息も途切れ途切れ、腹部をやられたのでしょう、包帯でふくれています。苦しそうななかにも、はっきりした口調で、死ぬための薬をもとめました。もとより励ましの言葉でしかこたえることはできません。
しばらく沈黙がつづき、みんな静かに晶子さんを見守っていますと、晶子さんは急に口を動かしました。
「澄ちゃん、(妹の名前)待って。どうしてそんなに早く走るの・・・・・。姉さんも行くから待って、待って・・・・」「みんなどうもありがちうね。予科のみなさん、さようなら。お父さん、お母さん、妹たちもさようなら。姉さんは先にいこうね」
声はしだいにかすかになり、やがて息は絶えてしまいました。みんなうなだれたまま、声を殺して泣きました。

即死だった満ちゃん・・・・・・(上原当美子サンの証言)
伊原の第一外科壕で6月17日のことです。やがて日も暮れかかり、数名の学友が食事の準備にたち働いていました。その壕入り口の爆風除け近くに、古波蔵満子さん(予科3年)が横になっていました。カゼをこじらせたとかでまったく食欲をなくしている満子さんへ、わたしは砂糖きびをあげようと、牧志鶴子さん(高女4年)と二人で外へ出ました。
一、二本砂糖きびをかついで壕へ入りかけたわたしは、ヘアピンを落としたのでかがんだときでした。直撃弾が入り口で炸裂し、傲然たる音と硝煙が壕をおおいました。後から来た牧志さんは大腿部をもぎとられて血だるまになり、壕内にいた比嘉ヨシさんは胸部、知念芳子さんは目を射抜かれ、神田幸子さんは脚、荻堂ウタ子さんが腹部、それに看護婦さん、衛生兵ら二十余名の血があたり一面に飛び散りました。
満子さんも直撃弾か破片を心像にでもうけたのでしょうか、即死でした。だらりと下がった手には血がべったりと流れていましたが、通路に向いた顔は、わたしが壕を出る直前に言葉をかわしたそのままでした。なんという安らけさでしょう。ほしがっていたきびを一口もいただけずに永久の旅路へ・・・・・。

最南端の生と死
摩文仁一帯に米軍が進出した6月[18日夕刻、陸軍病院からひめゆり学徒隊に解散命令が下った。戦況が悪化し、戦闘継続は各自判断せよ、というものであった。その夜、本部からの命令を受けた各壕の生徒たちは予想さえしなかったことで、鎮痛の思いに一言もなかった。
兵士といっしょに玉砕するか、米軍陣地を突破して国頭へ行くか、それとも海岸づたいに東回りか西回りか−−−それは軍隊という大きな力、学徒という集団の力を失った一人の女生徒にとって、あまりにも大きく重たい決断だった。夜が明けると壕を脱出できなくなるという。出ようか、出まいか・・・・。
生と死の彷徨がはじまった。第三外科壕以外の学徒は壕を出た。四、五にんで班を編制し、最南端の岩かげや、アダンのジャングルに身を隠しながらさまよい歩いた。米兵の姿が見え隠れする。”いつ死ぬか”という思いと、”お母さんに会いたい”という願いに揺れながら、ある者は追いつめられて傷付き倒れ、ある者は自決していった。