ひめゆりの乙女たち
朝日新聞企画部(東京本社)編ヨリ
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戦時下のひめゆり学園
沖縄は、明治初期、それまでの王国を廃して日本の一県となったが、旧来の慣習のほとんどが存続させられたなかで、教育だけは別扱い、日本=皇民化(忠良なる臣民となること)の教育がつよくおしすすめられた。
日中戦争から太平洋戦争へと戦争が拡大するとともに、さらに「尽忠報国」(忠義を尽くして国に報いること)の精神が強調された。
女学校では本土に準じて、昭和13年ごろから体育に薙刀が採用されたり、16年から制服のセーラー服にかわって「へちま衿型」にかえられたり、必修科目の英語を敵性語dからと随意科目にしたり(17年)授業時間をけずって食料増産のための農作業を行ったりした(18年)。ひめゆり学園では、19年にはいると、日本軍のための陣地構築の作業も加わった。
授業、校内作業、動員の三部制が二部制に、つまり一日おきの動員となり、その間をぬって、いもや野菜づくり、防空壕堀りなどもおこなわねばならず、勉学からはますます遠ざかっていった。
空襲--疎開命令
戦争の激化にともない、人や物を分散して損害を少なくしようという疎開の方針は、本土では昭和18年夏に決まり、真っ先に軍事工場から、ついで建物や人が、大都市・工業地帯から地方へ移動していった。
沖縄でも、サイパン島が陥落した19年7月、老幼婦女子を中心に疎開命令が出た。県庁の役人や家族、寄留証人のすばしこい人たちは、いち早く本土へ疎開していったが、一般県民は、海上の危険、疎開先の生活不安、あるいは沖縄方言の問題などから、はじめはなかなか腰をあげなかった。それでも米軍の上陸は必至と思われ、戦闘の足手まといになることをおそれる軍の強い命令もあって、九州へ6万人、台湾へ2万2千人が疎開した。それらの疎開船のうち、米軍潜水艦によって撃沈された船も少なくなく、沖縄海上はすでに戦場となっていた。
昭和20年に入ると、首里、那覇地域で軍に直接協力できない17歳以下の子供と45歳以上の婦女子と老人が強制的に疎開させられた。疎開船は既に無く、北部の国頭へわずかな食糧をかかえて8万5千人が移動した。
”鉄の暴風”沖縄戦はじまる (1945年4月1日・嘉手名)
沖縄戦は沖縄本土の空襲(3月23日)と艦砲射撃(同24日)を先ぶれとして、3月25日の慶良間列島=阿嘉島への米軍上陸に始まる。以後90日、”鉄の暴風”といわれる米軍の激しい砲爆撃下に死闘が続くが、5万の米軍が沖縄本土へ上陸した4月4日、嘉手名地域には、日本軍はいなかった。米軍はその日のうちに、多数の戦車、重砲弾薬、諸物資を陸揚げすると共に、前進部隊は夕刻には、はやくも北(読谷)と中(嘉手名)飛行場を占領した。激戦と死をも覚悟していた米兵は”これはエイプリル・フール(四月バカ)じゃないか”といぶかるほどだった。
米軍は3日目には本島中部のもっとも狭いところを東進して東海岸に出て、島を南北に分断した。4日には、住民保護の名目で軍政府を設けるなどのゆとりをみせた。上陸兵員は計18万、支援部隊を含めると55万が沖縄の陸と空と海をうめ、ミシンや楽器まで持ち込む膨大な物量作戦で、日本軍を圧倒した。
米軍上陸の日、日本軍の牛島満司令官は首里山上から、はるか嘉手名海岸に上がる砲煙を眺めていた。その首里城下の地下壕にもぐった司令部では、米軍に対する出血持久作戦を練っていた。応戦する第三十二軍は兵力約7万(別に海軍は(8000人)、兵力の補いには17歳から45歳までの県民2万5千人が動員され、その中に中学、師範、女学校の学徒2200人もふくまれていた。
大きな要塞砲はなく、弾薬も少ない日本軍は、4月10日ごろから夜襲や斬込みをおりこみながら反撃に移り、20日ごろから首里をめぐるはげしい戦闘に入った。一方、東西の両海上をうめる米艦船に対して、4月6日、7日、日本海軍の特攻「菊水一号」作戦が発動され、ゼロ戦などの特攻機355機が突入し、戦艦「大和」も出撃した。沖縄海上には計2000機の陸海軍機が突っ込み、米艦船187隻を沈没、損傷させた。
五月に入り、首里の日本軍は最後の総攻撃を行ったが失敗に終わった。そのあと、沖縄特有のはげしい梅雨が戦場をおおった。
ひめゆり学徒隊の従軍
米軍が激しい艦砲射撃をはじめた3月24日、第32軍司令部から沖縄師範学校女子部と県立第一高女に従軍命令がでた。かねて軍は陸軍病院の看護要員として200名を要請しており、両校上級生は速成の看護教育を受けていた。
両校生徒は後にいわれるようになる「ひめゆり学徒隊」を編制するが、同夜は寄宿舎にいた全生徒があわただしく、南風原陸軍病院へ出発した。25日に卒業式が予定され、それが終われば帰郷することになっていた離島出身の、非看護要員の下級生もいっしょだった。
16歳から20歳までのひめゆり学徒は、学園の赤い甍や相思樹の並木に別れを告げ、淡い月影に照らされながら、道をいそいだ。背中のリュックの中には、身のまわり品と共に、最後のための用意に、制服が納められていた。
南風原陸軍病院でははじめの数日間を三角兵舎で過ごしたが、すぐに三つの壕にわかれた。病院患者は、はじめ少なく看護隊の一部が看護にあたるのみでほとんどは衛生材料の運搬や壕掘り作業に従事していた。
五日目の3月29日夜、南端の三角兵舎で卒業式がおこなわれた。生徒たちの願いがわずかにかなえられたもので、二本のろうそくがともされただけのせまい式場、ごく少ない父兄来賓、祝辞・答辞の悲痛さ、さびしさ−−−前年までにかわるあまりに大きな卒業式のかわりようだった。生徒たちはそれでも喜びを胸をいっぱいにし、「海ゆかば」を斉唱したが、その歌声は遠く近く響き渡る砲声の中に消えていった。
四月のなかごろから戦闘が激しくなるとともに、患者が激増した。学徒隊はそれまでの学校独自の編制から、病院側の第一、第二、第三の各外科に応じた分散編制となり、生徒は各科看護婦長の直接の命令を受けるようになった。はじめ外科手術に立ち会い、血を見て卒倒してしまうような生徒たちも、しだいに訓練されて気強くなっていった。
はら陸軍病院
那覇と与那原町を東西に結ぶ中間点に開設された南風原陸軍病院は、五ヶ月前、那覇空襲で焼け出された沖縄陸軍病院が急遽、国民学校(現在の小学校)校舎を接収して設置したもの。院長・広池文吉軍医中佐以下、看護婦、薬剤官など約300名がおり、ほかにひめゆり学徒隊280名ほどが加わった。看護婦には赤十字看護婦(野戦病院でのベテラン)、一般看護婦がいて、学徒看護婦がその下についた。べつに事務や炊事の女性も加わっていた。
米軍の急襲、上陸にともない臨戦態勢がとられ、周囲丘陵には数多くの横堀る壕が掘られた。壕は人が立って歩けるほどの高さで、まん中の通路をはさんで両側にかこいだなの二段ベッドがつくられた。第一外科(一般外科と眼科、歯科、耳鼻咽喉科)、第二外科(内科)、第三外科(結果ぅその他の伝染病)にわかれ、ひめゆり学徒が各科看護婦長(二名)の命令で走りまわり、引率の先生は各診療主任のもとで、主として学徒の負傷、戦死の処理にあたった。
第一外科、上原君子婦長
第一外科の看護活動を長田則子婦長とともに指揮。悲惨な環境のなか、沈着、機敏に任務を果たし、生徒からも母のように慕われた。
南風原陸軍病院では、四日に一度の軍医回診の間をぬって、日夜、傷病者を見まわり、治療、食事の世話、死体の埋葬、そうしてつぎつぎと倒れる看護婦のやりくりまでに目くばりをした。もちろん学徒隊員にも愛情深く接し、その実感のこもった”ご苦労さま ” のことば、あるいは時に示される「さあ、ご飯をうんとおあがり、今日は私の寝台でぐっすりお休み」といった配慮に、涙ぐむ生徒も少なくなかった。
摩文仁に移動後は、病院壕や民家に倒れ伏す傷病者をいたわり、みずからの最後にと用意していた薬品まで使い果たした。6月20日、山城の近くで負傷し、手当を受けているところへ砲弾が炸裂、即死したという。その御霊はいま故郷、糸満に祀られている。
日本軍敗走
首里攻防の激戦の一つに、安里北側の五十二高地(シュガー・ローフ)をめぐる戦いがある。5月中旬、守備軍と米海兵隊の最後の死闘は10日間続き、両軍に死傷者を多数出したが、米軍では1000人こえる戦闘恐怖症患者をだすほどだった。
5月27日、日本軍は敗北し、第三十二軍司令部は首里から南部、摩文仁へ退去した。その時4万人ほどの死傷者が陣地壕や周辺に置き去りにされた。戦線をさまよう一般住民も入り乱れて南下、路上で1万5000人が死んだ。
那覇の南、小録地区を守る太田実る少将以下の海軍部隊は、米海兵隊の攻撃を受けて孤立、6月6日、太田司令官は東京の海軍次官に宛てて訣別電報を打った。沖縄県民の軍の協力をたたえ、「若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ケ 看護婦炊事婦ハモトヨリ 砲弾運ヒ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ・・・・・軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケ・・・・・真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレス」と記している。