ひめゆりの乙女たち
朝日新聞企画部(東京本社)編ヨリ
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針ほどの細い命 (琉球大学名誉教授 中曽根 政善)
三ヶ月にわたり、二十万余の戦死者を出した沖縄戦の実体は、一人の体験からは、想像もつかない。一人一人は点と線を歩いたのである。砲弾のたえず飛び散る中では、隣の壕でどんなことが起こったか、まったくわからなかった。いまでも、生き残って生徒たちが集まって、戦争の話をするとき、かならず想像もつかない新しい事実が、次から次へと出てくる。
1945年(昭和20年)6月17日、米軍司令官バックナー中将が、日本軍司令官牛島中将に降伏の勧告をした時点では、ひめゆり学徒の犠牲者は11名だった。その翌18日、学徒隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。19日には、現在のひめゆりの塔の壕で、ガス弾をほうりこまれて、職員生徒35名が無惨な最期をとげた。その他の多くは、沖縄最南端の断崖に追いつめれれて命をたったのである。ひめゆりの塔に祀られている生徒は、194名。なんと悔しい思いか。
沖縄戦で、人間の修行とか、知恵とかが、どれほど生徒とかかわっていたか、疑問をもつのは、私ばかりではなかろう。生き残った者は、知恵があったとか、死んだ者は勇敢であったとか、臆病であったとか、尽忠報国の精神にもえていたとか、あるいは信仰が浅いとか、深いとか、そういったことが、この沖縄戦下で、どれほど人びとの生死と関係があっただろうか。人間の個々の力は、この戦いの前には、ほとんどゼロに近かった。とくに島の南端に追いつめられた者については、そう言える。
生きるも死ぬも、ただ偶然であり、僥倖でしかなかった。生き残った生徒と、死んでいった生徒とを比較して、人間の浅はかな知恵で、その生死の理由を判別することは、とてもできない。 もしこの偶然、僥倖を運命というならば、すべては運命によってさばかれたのである。生きるべき者が生き、死ぬべき者が死んだなどとは、世間的な意味ででもとうてい考えられない。
生き残った者には、まだ果たすべき使命が残っている、と考えるのは、一つの生き方ではあっても、死んでいった生徒たちの使命がまったくなくなったなどとは、とうてい考えられない。ただ運命という針ほどの細い軸に支えられて生きのびたのである。そうしてその生きのびた命の底には、悲しみが深淵のようにたたえられている。天地の始まりからの悲しみである。
戦争というものは、極悪非道むごたらしいきわみである。ひめゆり学徒隊については、映画やテレビなどで、いくどもドラマ化された。一般の人々は、誇張しすぎているという。とんでもな、事実はもっとむごたらしい。
どんな理由があっても、戦争は許せない。生命が最上のものだ。生命のなかにこそ最上の価値がある。国を守るとはいったいどういうことか。国民の生命を守らずして、何を守るのか。
当時、鬼畜米英(アメリカ・イギリス)・青鬼どもなどと、敵がい心をあおりたてていた。捕虜になるのは恥だ、それより死んだ方がよいと、生徒たちも思いつめていた。下級生のなかには死にたくない、もう一度母親の顔を見たいという者もいた。死ぬならきれいさっぱりとひと思いに死にたいと、誰もが考えていた。数限りないむごたらしい死を見せつけられていたからである。
島の南端、喜屋武断崖に追いつめれれて、生徒たちは、いつのまにか自決の態勢をとっていた。私は岩かげから敵兵の動きを見ていた。すると、青い服をつけた彼等も、青鬼ではなく、ただの人間ではないかというような気がした。人間に対する信頼感がわいた。国と国とは疑い合い、戦っていても、人と人との間はそうではあるまい。よもやこのような乙女たちを、虐殺するようなことはあるまい、と考えた。車座になって手榴弾を握りしめている生徒たちに、自決をやめよとつよく制して捕虜になったのである。
けっして仮想敵国などをつくってはならないと思う。