詩人 佐 藤 春 夫
『 殉 情 詩 集 』『 車 塵 集 』
“ 佐藤春夫の恋 ”
 佐藤春夫の漢詩訳詩集『車塵集』は昭和四年九月、武蔵野書院から刊行された。 佐藤春夫は若いころから漢詩を愛読し、中国文学に関心を持っていた。 大正七年に、創作『李太白』が谷崎潤一郎の推挙をうけて「中央公論」に掲載され、大正九年には友人に誘われて台湾に旅し、春夫の中国への関心はさらにその傾斜を深めていった。
 親友であった芥川龍之介が中国への造詣が深く、中国に題材をとった小説を手がけていたことも春夫に刺激を与えていたと思われる。 芥川は春夫の中国女流詩人の訳詩をみて感心し、自分も同じ数の訳詩を創るから共著にしようと提案したと、春夫自身が語っている。 しかし、昭和二年七月、芥川の自決によりこの提案は不可能となった。 春夫は『車塵集』の扉に、「芥川龍之介のよき霊に捧ぐ」と献辞し、この書の成立に勇気をくれた芥川への感謝の意を表した。
 大正十年ころから昭和五年にかけて、佐藤春夫にはにがく苦しい恋の時期があった。当時のマスコミを賑わせた谷崎潤一郎と佐藤春夫の「妻譲渡事件」がこの恋の帰結である。 もとをただせば、ことの起こりは谷崎の結婚生活の中にあった。 谷崎は若い時期から、花柳界に友人がいて向島などに通っていた。 文壇に登場して有名人となった谷崎は向島の「嬉野」に通い、ここに出ていた芸者お初を気に入り、結婚を申し入れた。
お初は気風のいい、チャキチャキの江戸っ子芸者で男勝りの性格だった。 だが、お初は旦那持ちだったため、この申し入れは叶わず、代わりに自分の妹ではどうかという話しが出て、谷崎もお初の妹ならとこの話がとんとんと運んでまとまった。 この妹が千代である。千代はお初に勝る美貌の持ち主だった。だが、千代はお初とは対照的におとなしく貞淑な女性であった。
当時のあるべき女性像としては非の打ちどころのないのだが、そこが谷崎には不満だった。そこに登場するのが千代の妹おせいである。おせいは姉のお初に似た性格で、谷崎はおせいの方に気を移していく。

 佐藤春夫が東京小石川にあった谷崎潤一郎の家を訪ねるのは、大正六年のことである。
谷崎は千代との間に一子鮎子を設けていたが、春夫が訪ねたときの様子は冷め切った夫婦であった。
この間の事情は谷崎、春夫の著作に詳しく書かれているので一読されたい。 妻を残し、妹おせいと外出してしまう谷崎をみて、春夫は千代に同情を寄せ、しだいに同情は恋心へと変わっていった。
人口に膾炙した春夫の『秋刀魚の歌』はその心情を綴ったものだ。少し長くなるがここに引用しておく。
   秋刀魚の歌   佐藤春夫
あはれ
秋風よ
情あらば伝えてよ
― 男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
思いにふける と。

さんま、さんま。
そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて
さんまを食ふはその男のふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
汝こそは見つらめ
いかに
秋風よ
いとせめて
証せよ かの一ときの団欒夢に非ずと。

あはれ
秋風よ
情あらば伝えてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児とに伝えてよ
― 男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす、と。

さんま、さんま、
さんま苦いか塩っぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あわれ
げにこそは問はまほしくをかし。
 春夫の千代への燃える思いは、谷崎の千代へのあからさまな仕打ちによっていっそうかきたてられた。
谷崎は一度は春夫に千代を譲るといいながら、それを打ち消し、二人は交際を絶った。春夫は神経症となって、郷里に引き込んでしまった。そのとき書き綴ったのがこの『秋刀魚の歌』だ。

 中国の女流詩人の訳詩を集めた『車塵集』においても、春夫は千代への思いを訳詩の言葉に託して伝えようとした。
『殉情詩集』の中でなお言い尽くせなかった思いを直裁に訴えかけたのである。 春夫は『車塵集』の冒頭に「ただ若き日を惜しめ」を置き、末尾には「霜下の草」を配した。
「わが言の葉をうたがはば 霜に敷かるる草を見よ」と千代への力強いメッセージを送ったのだ。

 昭和五年八月十九日の新聞各社は、谷崎潤一郎が佐藤春夫に夫人を譲った事件を一斉に報じた。谷崎と千代、春夫の連名による知友あての挨拶状が紹介され、社会にセンセーションを与えた。

拝啓 炎暑之候尊堂益々御清栄奉慶賀候 陳者我等三人此度合議を以て千代は潤一郎と離婚致し春夫と結婚致す事と相成潤一郎娘鮎子は母と同居致す可く素より双方交際の儀は従前の通に就き右御諒承の上一層の御厚誼を賜度何れ相当仲人を立て御披露に可及候へ共不取敢以寸楮御通知申上候 
                              敬具

谷崎 潤一郎
     千代
佐藤  春夫
なほ小生は当分旅行致す可く不在中留守宅は春夫一家に託し候間この旨申し添え候                      
谷崎 潤一郎
これを機に谷崎は関西へ居を移すが、すでに谷崎の心に根津松子の幻影が棲み始めていた。
今井 幹夫・寄稿