〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 名 君 、女 色 に 溺 れ る ==

貴 妃 溺 愛 の 日 々

玄宗がある女性に心を奪われていると知った高力士は、大いに悦んだが、その女性が、他ならぬ寿王李瑁の妃楊玉環 (オウ ギョクカン) 二十二歳であると知って、うーむと呻って腕をこまねいた。 寿王は武恵妃と玄宗の間に生まれた子だ。その妃、つまり倅の嫁に惚れこんでしまった訳である。
困ったなと考えたが、すぐに心は決まった。玄宗の祖父高宗は太宗の妃であった武照 (ブショウ) を宮中に入れて自分の妃とした。これが則天武后だ。祖父は父の妃を、孫は子の妃を ── 妙な巡り合せだなと苦笑しながらも、玄宗の意に沿うように全力を尽くすことにした。
高力士は、寿王を説得した。武恵妃亡き後、玄宗の好意を維持することは絶対に必要であること、そのためには妃を帝に譲るのもやむを得ないだろうということを ── 寿王がそれを納得すると、高力士は、韋詔訓 (イ ショウクン) の美貌で評判の娘を寿王の妃とすることにしたのである。
それにしても、皇子の妃を直ちに帝の妃として入内させるのは世間体が悪い。いったん女道士として太真 (タイシン) と名乗らせた上、ひそかに宮中にいれた。翌天宝四年 (745) 、貴妃の位を与えられた。
玄宗は急に若返った。楊貴妃の美貌と、そのグラマーな姿態については、有名な 「長恨歌」 の描写にゆずるが、後宮三千、六宮の美女、誰も彼女の魅力に及ぶものはなかったらしい。
その上、彼女は、頭がよく、音楽に長じ、殊に琵琶の名手であった。玄宗も音楽を得意としたから、二人の気が合ったのは当然であったろう。
楊貴妃の一門は悉く出世した。亡父は斉 (セイ) 国公をおくられ、母は涼 (リョウ) 夫人に封ぜられ、叔父の玄珪 (ゲンケイ) は光禄卿 (コウロクジョウ) に、兄の銛 (セン) は鴻臚 (コウロ) 卿に、従兄のリ (キ) は侍御史に取り立てられた。三人の姉は、韓 (カン) 国夫人、? (カク) 国夫人、秦 (シン) 国夫人の号を与えられ、すばらしい権勢を獲得する。
玄宗は毎年十月になると、華清宮へ赴き、年末まで滞在したが、貴妃は勿論、これに随行した。ここに湧く温泉に浴する貴妃の嬌然 (キョウゼン) たる艶姿もまた、 「長恨恨」 によって、伝えられている。
貴妃の一門で最も権勢を揮ったのは、再従兄の一人である楊国忠 (ヨウ コクチュウ) であった。
貴妃の縁で監察御史に抜擢されると、全盛の李林甫 (リ リンポ) に巧みの取り入り、御史大夫で京兆尹 (ケイチョウイン) (首都長官) に至った。ここで出世すると、恩人ともいうべき李林甫が煙たくなる。李の方も忘恩の輩として憎む。二人は互いに党派を立てて争った。
楊国忠が南詔 (ナンショウ) 討伐に失敗して形勢が不利になった時、幸運にも李林甫は病死した。国忠は安禄山を使って、玄宗に、
── 林甫は謀反を企てていた。
と讒言した。玄宗はこれを信じて李林甫の官爵を削り、棺を開いて死体から金紫の装束を剥ぎ取り、庶人用の小さい棺に移させ、二人の息子を広東に流した。
李と楊とがこうして争って入間に、安禄山がしきりに勢力を伸ばしてきたのである。楊貴妃が安禄山の異国風の風貌を好んでいたためというが、二百キロもあった肥大漢が、果たしてそれほどの男性的魅力を持ち得たであろうか。
むしろ、安禄山が極めて狡猾で、表面上、すっとぼけた面で、いとも巧妙に貴妃を初め後宮の女たちに道化て見せ、その一方、惜しみなく贈物をして、女たちの心をしっかりと掴まえてしまったのだというべいきであろう。
そして貴妃にうつつを抜かしている玄宗としては、貴妃の気に入っているものはすべて気に入ったというだけのことである。
天宝十三年 (754) 、入朝した安禄山に、玄宗皇帝は宰相の地位を与えようとした。楊国忠は、あのような文盲の徒を宰相にすると、唐朝が異民族の間に権威を失墜する恐れありとして強く反対した。楊は、禄山の権勢が余りに巨大になりつつあるのを不安に思っていたのである。彼は禄山を排除することを考え始めていたに違いない。
禄山は多くの腹心の者を使って、情報蒐集をやっていたから、楊国忠が自分を打倒しようと図っていること、玄宗皇帝に色々誣告 (ブコク) していることを知り、長安に滞在しているのは危ないと考え、急いで范陽 (ハンヨウ) (河北省) に引き揚げていった。
子の翌年、玄宗が禄山に対して、長安に出てくるように命じたが、禄山は病気と称してこれに応じない。楊国忠はしきりに安禄山に異心のあることを玄宗に吹き込んだ。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:南條 範夫  ヨリ