す べ て を 失 っ た 皇 帝

安禄山が叛いたのは、天宝十四年 (755) 十一月である。
楊国忠に追いつめられた結果、やむなく自衛の手段に出たのだとうのもいる。三つの節度使お兼ね、天下最大の兵力を擁しており、宮廷の腐敗無力をよく知っていたから、天下を狙ったのは当然だという見方もある。
禄山は、入京して君臣の奸楊国忠を討つと称し、十五万の大兵を率いて進発した。この報せを得た楊国忠は、愕くよりむしろ悦んだ。もともと。緑山のの謀叛を誘発して、一挙に片付けてやろうと思っていたからである。
封常清 (ホウジョウセイ) が命を受けて、叛軍討伐に向かったが、緑山軍の勢いはもの凄く、十二月三日早くも黄河を渡り、封軍を撃ち破って、十三日東都洛陽を陥れた。
朝廷は哥舒翰 (カジョカン) を総大将とし、これに八万の兵を与えて潼関 (ドウカン) を守らしめる。
安禄山は天宝十五年 (756) 正月元旦、大燕帝 (ダイエンテイ) と称し、洛陽に腰を据えた。
平原の太守顔真卿 (ガンシンケイ) は、従兄で常山の太守だった顔杲卿 (ガンコウケイ) と共に、緑山軍と果敢に戦った。朔方 (サクホウ) の節度使の郭子儀 (カクシギ) 、河東節度使李光弼 (リコウヒツ) も、奮戦してしばしば緑山の軍を破った。
ところが、潼関を守っていた哥舒翰と楊国忠の関係が悪化したため、哥軍が動揺し、緑山と戦って敗れ、潼関は陥落した。
長安の朝廷は、呆然とした。潼関が破られては、もはや長安は到底守りきれない。楊国忠の意見に従って、皇帝は蜀 (四川) に亡命することになる。
六月十三日未明、玄宗一行は長安を脱出し、翌十四日長安の次ぎの宿場である馬嵬 (バカイ) 駅に着いた。将士はみな、飢えと疲労とで、苛立っていた。たまたま、事情を知らないで通りかかった吐蕃 (チベット) の使者一行二十余人が、楊国忠に近づいて、食糧を分けてくれと頼んだ。
食糧はこちらが欲しいぐらいだと、楊が対応しているのを、遠くから見ていた兵士たちの中で誰かが、
── 楊国忠が吐蕃人と謀叛の打ち合わせをしているぞ
と叫んだ。何の根拠もない放言であったが、事のはずみは恐ろしい。苛立っていた兵たちは、声を挙げて国忠に襲い掛かって惨殺し、その首を槍の先に刺して駅の門に掲げた。
血は血を呼ぶ、狂ったようになった兵士たちは、国忠の息子や、貴妃の姉妹たちも殺した。更に、玄宗に迫って、楊貴妃の処分を求める。もはや皇帝のどんな言葉も聴き入れようとはしない。
高力士は、玄宗の決断を求めた。玄宗もこうなってはうなずくほかはない。高力士は、仏堂の前で貴妃を縊り殺した。
その遺体を見せると、兵士たちはようやく鎮まった。貴妃この時三十八歳、玄宗は七十一歳である。
再び蜀へ向かって出発したが、玄宗はもう帝位に未練はなくなっていた。亡国の責めを持つ自分にそれを維持してゆく資格があるとも思われない。随行していた皇太子李亨 (リ コウ) に帝位を譲ることを告げた。李亨は、玄宗と別行動をとることとし、北西の霊武 (レイブ) に赴き、そこで即位した。これが第七代粛宗である。蜀の聖都に逃れた玄宗を上皇天帝と呼んだ。
玄宗が長安を逃れてからも、安禄山は洛陽に止まっていたが、視力衰え、疽 (ソ) 病んで狂繰 (キョウソウ) となり、至コ (シトク) 二年 (757) 正月、息子慶緒 (ケイチョ) に殺された。
同年十月、粛宗は、郭子儀 (カクシギ) を総司令官とした官軍を率いて長安を回復した。粛宗の長男李俶 (シュク) は、勢いに乗じて洛陽に殺到しこれを陥れる。玄宗が長安に帰って来たのは、十二月のことである。
緑山の後をついだ安慶緒は、武将の史思明 (シシメイ) に殺された。大燕皇帝を称した史思明は、一時は洛陽を奪回するほどの勢いを見せたが、彼もまた息子の史朝儀 (チョウギ) に殺された。そしてこの史朝儀が、緑山の部下であった李懐仙 (カイセン) に殺された広コ (コウトク) 元年 (763) 九年にわたる安史 (アンシ) の乱が終結したのだが、玄宗も粛宗も高力士も、その前年に死んでいる。
この前年とは即ち、粛宗の宝応 (ホウオウ) 元年 (762) で、玄宗は四月、七十八歳で死んだ。晩年、宦官李輔国 (ホコク) が玄宗と粛宗の離間を図り、玄宗は彼の好んだ興慶 (コウケイ) 宮から神竜 (シンリュウ) 殿に移され、淋しく死んだ。
粛宗もこの時、病床にあったが、父の死からわずか十三日後に五十二歳で死んでいる。高力士は李輔国の讒言によって湖南 (コナン) に流されていたが、この年恩赦に会い、長安に向かった。朗 (ロウ) 州まで来た時、玄宗が死んだことを知らされ、
── 号慟 (ゴウドウ) し、血を吐いて卒す。
という。七十九歳。
この同じ年十一月、詩人の李白も死んでいる。六十歳の老躯に鞭打って、史思明討伐の軍に加わろうとしたが、病を得て死んだのである。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:南條 範夫  ヨリ