〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 名 君 、女 色 に 溺 れ る ==

武 恵 妃 の 死

人間の緊張というものは、あまりに長くは続かないものである。名君主として二十年余りを過ごしている中に、玄宗皇帝も次第に政治に倦んできた。わが国でも徳川五代将軍綱吉は、その治世の前半には、好学峻厳の将軍として大いに治績を挙げ、諸大名を威圧したが、後半になるとガタガタに崩れ、女色におぼれ佞臣柳沢吉保に操られ、生類憐れみの令という愚劣な法令によって、万民の恨みを買うようになった。
玄宗の政治の乱れも、やはり女色から起こっている。
玄宗の皇后王氏は、怜悧ではあったが、子供が生まれないため、玄宗の愛情を失い、つまらぬ呪術の問題で交合の地位を廃されて庶人に貶された。開元十二年 (724) である。
玄宗はこの以前から、武恵妃 (ブケイヒ) (則天武后の従兄の孫娘) を寵愛していたので、これを新たに皇后にしたいと思ったが、唐室を奪った則天武后の一族であることを理由に反対する声が強く、玄宗もそれを無視してまで強行することは出来なかった。
この武恵妃に近づいたのが、吏部侍朗 (リブジロウ) の李林甫 (リ リンポ) である。 武恵妃の皇子寿王李瑁を支援することを約束して結託した。
時に、皇太子の李瑛 (エイ) その弟の李瑤 (ヨウ) ・李? (キョ) の三人は、それぞれ腹違いであり、その生母はすでに玄宗の寵を失っていたので、武恵妃は李瑁を皇太子たらしめようと図っていたのである。
恵妃は、皇太子ら三皇子が、自分たち親子を殺害しようとしていると玄宗に訴え、皇太子らを擁護していた張九齢 (チョウキュウレイ) は、李林甫の讒言に会って罷免された。玄宗はついに、皇太子ら三皇子を殺害した。開元二十五年である。
玄宗という人は本来愛情の深い性格である。自分が三男であるにも拘らず、功績によって皇太子となり、皇帝となったので、二人の兄にはひどく気をつかい、皇帝となってからも非常に兄を大切にし、親愛の情を示した、長い枕をつくって、二人の兄と寝室を共にして遊び娯しんだとさえいわれている。そんな玄宗が自分の子を三人も殺すというのは、よくよく執拗な讒言が、彼の耳にそそぎ込まれたからであろう。
李林甫は、武恵妃の生んだ李瑁を皇太子にすることを極力勧めたが、玄宗は、さすがに気が咎めてか、これに従わず、高力士の勧めた忠王李亨を、仁孝恭謙で学を好むものとして皇太子とした。これが後の粛宗である。
この点では李林甫は失敗したが、他の点では、李は極めて巧みに玄宗に取り入り、これを操り、前後十九年間も宰相の地位にあって権勢をほしいままにした。
この李林甫に取り入って、めきめきと売り出してきたのが、安禄山という男である。安禄山は父は胡 (コ) 人、母は突闕 (トッケツ) 人だといわれているが、幽 (ユウ) 州へ逃れてきて、幽州の節度使張守珪 (チョウ シュケイ) の麾下に属し、次第に出世していった。 非常に愛想がよくて、人の心を掴むのがうまく、六ヵ国語を自由に操ったという。
開元二十八年 (740) 平盧兵馬使となった安禄山は、中央の役人に対して気前のいい贈物戦術、阿諛 (アユ) 戦術を展開し、天宝元年 (742) 平盧節度使となった。その後、天宝十年までに、范陽 (ハンヨウ) 節度使及び河東 (カトウ) 節度使を兼ねるに至っている。
彼の人心収攬術は大したものだったらしい。何とか理由をつけて入朝し、宮廷の後宮に入って女人たちのご機嫌を伺い、皇帝側近に着々勢力を扶植していった。天宝六年 (747) には、御史大夫 (ギョシタイフ) をも兼任し、長安に広大な邸宅を賜っている。
玄宗の宮廷生活において注目すべきことは、宦官が急激に力を得てきたことである。その数三千余、この盛況をもたらしたのは、即位前から玄宗に仕えていた高力士という宦官の手腕による。
高力士は、太平公主一派を平定する時にこれを助けて功があり、右監門将軍 (ウカンモンショウグン) ・知内侍省事 (チナイジショウジ) に任じられ、三品 (サンポン) を与えられた。三品は宰相の位に相当するものである。
高力士は宮中に詰めきり、諸方から来る上奏文も彼が先ず目を通してから玄宗に提出するという状態となる。政治に倦んだ玄宗にとっては、李林甫や高力士のような存在が、極めて便利であり、従って最も忠実な家臣と見えたのであろう。
玄宗にとって、悲しむべきことが起こった。開元二十五年 (737) 十二月、武恵妃が死んだのである。彼女はこのときすでに四十歳を超えていたと思われるが、玄宗の寵愛はずっと続いていたらしい。
武恵妃の死は、彼女がたくらんで死に追いやった三皇子の亡霊に悩まされた結果だともいわれているが、永年、この武恵妃を愛しつづけてきた玄宗にとっては、その死は大きな打撃であった。
玄宗は鬱々として楽しまず、健康も衰えそうに見える。高力士は大いに心配して武恵妃に代わる女を探し求めた。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:南條 範夫  ヨリ