〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 名 君 、女 色 に 溺 れ る ==

若 き 新 帝 の 治 績

玄宗というと、口髭と顎鬚を伸ばし、でっぷり肥ったいかにも好色そうな老皇帝のイメージが浮が、玄宗とても、颯爽とした若い次代があったのだ。そして、少なくも彼の長い治世の前半は、名君主に値する立派な治績をあげているのである。
玄宗の伯中宗 (チュウソウ) は、皇后韋 (イ) 氏と娘の安楽公主 (アンラククコウシュ) のために毒殺された。韋氏は脆弱な良人に飽き足らず、則天武后 (ソクテンブコウ) にならって、政治の実権を掌握したいと考えたのだ。良人を毒殺した後、彼女は末子の十六歳になる李重茂 (リ チョウモ) を皇帝とした。いずれ皇太后から女帝への道を辿るつもりであったろう。
中宗が毒殺されたのは、景雲 (ケイウン) 元年 (710) 六月壬午 (ジンゴ) 、その十八日後、中宗の弟相王 (ショウオウ) 李旦 ( リ タン) の第三子臨? (リンシ) 王隆基 (リュウキ) は、クーデターを敢行した。隆基は青年将校・若手官僚を率いて宮中に突入し、皇后と安楽公主とを殺した。
李旦が重茂に代わって帝位につき、睿宗 (エイソウ) となる。隆基は三男であるが、この功績によって皇太子となった。
韋氏一派は排除されたが、韋氏打倒に力を貸した太平公主 (則天武后の娘) は勢力をのばし、人事にまで容喙 (ヨウカイ) し、皇太子隆基と衝突する。気の弱い睿宗は、即位の翌々年の太極 (タイキョク) 元年 (712) 八月、位を隆基に譲って、紛争から逃れた。この十八歳の新帝隆基が、ほかならぬ玄宗である。
太平公主派は、玄宗暗殺を企てたらしい。玄宗は、逆に先手を取って太平公主派を実力で粛清し、太平公主を殺した。
ここに玄宗の威勢は確定し、開元 (カイゲン) ・天宝 (テンポウ) 四十四年の治世が始まったのである。
則天武后が退位し、中宗が即位してから玄宗の即位に至る七年間、唐帝室は、則天によってひき起こされた混乱と、韋氏による擾乱 (ジョウラン) の後始末の時期であり、その立役者として若き隆基すなわち玄宗が活躍したのだ。
玄宗は、即位の翌年 (713) 開元と改め、その三十年 (742) 天宝と改元したが、天宝は十四年粛宗 (シュクソウ) に譲位するまで続いた。玄宗の在位は実に四十四年の長きにわたっており、中国史上でも珍しい方である。
この四十四年の治世の中、初めの二十年ぐらいの間、玄宗は政治に意欲を燃やし、大いに治世を挙げた。
則天武后以来、韋后・安楽公主・太平公主ら凄まじい女性の実力者が宮廷を左右し、人事をほしいままにし、奢侈 (シャシ) 遊逸を事とし、仏教尊崇に過ぎてインチキ僧侶の跳梁 (チョウリョウ) をゆるした。
政治の面においても、均田制と府兵制の乱れは、早急の対策を必要とする状態にあった。玄宗はこの事態に直面し、頗る意欲的に、新しい政治建て直しに取り組んだのである。
幸いにこの治世前期には、多くの有能な廷臣がいた。特に、姚崇 (ヨウスウ) と宋m (ソウエイ) とは、臨? (リンシ) 王当時から玄宗に仕えていたが、開元初期に、相次いで宰相となって、縦横に手腕を発揮し、若き新帝を助けた。
均田制は国家が均等の土地を人民にたいして支給することを建前とするが、一般庶民 (農民) に支給される分は少なく、王公以下有爵者官僚官吏に与えられる分は大きい。
農民は生活難のために土地を手放し、これを手に入れた王公官僚や寺院などの荘園に入って小作人になったり、他国へ流亡するという現象が、当時一般化していた。
開元九年、実情を調査してみると、流民や逃亡民は八十余戸に上り、その手放した土地は膨大なものになっていた。そこで、不法な土地の占有者から土地を取り上げ、流亡者を原戸籍に返すようにし、流望の民を土地に定着させるように各種の方策を講じることにした。
均田制が混乱するに伴って、府兵制もまた乱れていた。
府兵とは、地方に設けられた摂政府 (セッショウフ) が州民から徴発するもので、平時は農耕に従うが、冬季は摂政府に集合して兵としての訓練を受け、また交替で首都に上って衛士の勤めをもするものえある。この府兵制は農民に対する著しく重い負担であり、その没落の一因ともなっていた。しかも、摂政府のない州民には課されていないという不公平もあり、次第に履行が困難となってくる。辺境の異民族が侵入してくると、到底この府兵では対抗できなくなった。
開元十一年 (723) 玄宗は兵制の改革を断行し、長安の宿衛に摂政府から番上 (バンジョウ) させることをやめ、新たに募集した十二万の傭兵をもってこれに当てることにした。
そしてまた、辺境の要地十ヵ所におかれた節度使に、現地において自ら兵士を募集することを認めた。この後、節度使とそれらの傭兵との間に強固な主従関係が生まれ、強大な軍閥となっていったのは自然のことであったろう。
そして、これらの節度使やしの幕僚の中に辺境民族出身の武将が次第に増加していった。彼らは武人としての才能をもつ者が多く、唐朝は彼らを大いに利用したのである。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:南條 範夫  ヨリ