〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 

楊貴妃は覇水を見た (五)

寿王邸の人たちは、武恵妃の死によって、大きな衝撃を受けた。傅をはじめ主だった連中は色を失った。期待が大きかっただけに、失望は深かった。
わが子寿王を皇太子に立てようという武恵妃の工作は、かなり順調に進んでいたのである。現皇太子の瑛を廃し、それに死を賜ることに成功し、大きな障害が除かれたばかりである。
皇太子に位が空いた。次は当然寿王を、というときに武恵妃が死んだのだ。彼女の急死は、彼女の策謀によって殺された前皇太子瑛の怨霊の祟りと取り沙汰された。
武恵妃亡き後、誰も寿王を皇太子にと、皇帝に推薦するものはいない。寿王にはそれほどの器量は無かったのである。肝腎の皇帝が、寿王を少しも買っていなかった。
学問が好きで、性質も謙虚な忠王の? (ヨ) という皇子が皇太子となった。これは皇帝の意思であって、誰の策謀でもなかった。忠王の生母の楊氏は、すでに故人である。忠王の器量を、皇帝が見込んだのであり、誰もが公正な選択だと思った。
誰もが、といったが、もちろん寿王側近の人たちは例外である。
忠王立太子決定の知らせがあった日、寿王邸はまるで葬式のようであった。邸内の人たちの悲嘆するさまは、寿王の生母武恵妃の死の報せが入ったとき以上のものがあった。あの時は、
── 今上陛下も、愛妃の祈念のために、寿王さまを太子にお立てになるだろう ── という期待が、まだつながっていたのだ。
今度の忠王立太子は、彼らの希望を打ち砕いた。
事は去った。
寿王びいきといっても、邸内の首脳部の大半は、朝廷から任命されたのである。
現金なものだった。彼らはもっと有利なポストへ転出できるように、つてを求めて運動をはじめた。そんな噂が、邸内でもおおぴらに話題になる。
立太子の争いに破れた寿王のそばにいても、たしかに何のメリットもない。下手をすれば、不平分子、造反派という嫌疑を受けるおそれさえあった。寿王に仕えるために派遣された人たちだが、いまはその職務をあまり忠実に尽くすことさえ、危険となったのだ。
ずるい人間はうまく立ちまわり、無器用な人間はおろおろしている。
玉環は何の感慨もなしに、それをみつめていた。感慨がないので、たとえば人々の心の冷えゆくさまが、ありありと見えたのである。
寿王の後宮に入るとき、玉環はまわりの人たちの態度の変化を経験している。そして今度の事である。ものごとの筋道が、濃い輪郭で見えてきた。
寿王邸の動揺に追い討ちをかけるように、玉環に道観 (道教の寺院) 入りの勅命が下った。
寿王側近にとっては、これは最後の決定的な一撃であった。
希望のかけらも失われた。
じつは忠王が皇太子となっても、あるいは、というケースが想定されたのである。
いつどのようなことで、忠王が廃されるかも知れない。げんに前の皇太子の瑛にしても、これといった落ち度もなく失脚したのである。忠王に何かあった時には、敗者にも復活の機会が与えられる。だが、寿王の場合は、そのような希望さえつみとられた。
玉環の道観入りについては、誰もが武后の尼寺入りを連想した。彼女が皇帝の目にとまった結果である。このような手続きのうらにある事柄は、宮廷内の人なら誰でも知っていた。── 寿王はその妃を父帝に奪われるのだ、と。
ほかに皇子も多い。忠王に何かあっても、えりにえって皇帝の愛妃のもとの配偶者を、皇太子の後釜に据えることはありえない。
最後の希望の灯が消され、それにたいする人々の様々な反応を、玉環はつぶさにわが心におさめた。
(やっぱり来るものが来たのね)
玉環はそう呟いた。
彼女は寿王をうとましく感じていたのである。
こんなくだらない男のそばにいたくない。── そう考えると、そのとおりになったではないか。
邸を離れる日、彼女は楼にのぼり、覇水の神に向かって、
── もうこれぐらいでよろしゅうございます ── と祈った。
恐ろしくなってきたのである。

『胡蝶の陣』 著:陳舜臣 毎日新聞社発行 ヨリ