〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜

破局への道 (二)

この天宝十載、唐は外国との戦いで二つの大きな敗北を喫した。一つは、いまの雲南 (ウンナン) にあった南詔 (ナンショウ) 討伐での敗北である。
討伐に出かけたのは鮮于仲通 (センウチュウツウ) 。蜀のならず者であった楊国忠に金品を持たせ長安に旅立たせたあの男である。土地の富豪に過ぎなかったこの男も、楊国忠の引き立てで剣南 (ケンナン) 節度使となっていたが、彼の南詔討伐の失敗を、楊国忠は李林甫 (リリンポ) に隠すために自らが剣南節度使となることでごまかした。
しかし、李林甫に隠しおおせるはずもなく、逆にあくる年、楊国忠自らが南詔討伐に出かけなかればならぬ破目となった。
それまた大失敗。玄宗に泣きついて途中で召還してもらったが、長安に戻るや否や、思いがけない李林甫の急死により、楊国忠は念願かなって宰相の座についた。
さて、天宝十載のいま一つの敗北戦は、有名なタラスの戦いである。いまのソ連領カザフ共和国にあるタラスにおいて、高麗人の高仙芝 (コウセンシ) 率いる唐軍が大食 (アラブ) 軍と戦って大敗した。
この時大食の捕虜となったある者は、サマルカンドに連れ去られ、そこで製紙法を大食人に伝授した。これが、西方世界に製紙法が伝わった最初である。また、はるかダマスカスにまで連れ去られ、十年間も抑留された者もあった。
この二つの敗戦は、唐の国力を著しく低下させたが、玄宗にはその認識はなかった。まして、李林甫の急死によって宰相となった楊国忠は、自分の権力を保持することにのみ意を須い、衰微した国の建て直しをする意志も能力もなかった。
例えば、 「死んだ李林甫は、実は謀叛をたくらんでいたのです」 と誣告し、それを信じて怒った玄宗は、李林甫の墓をあばいて含珠 (ガンシュ) (遺体の口に含ませる珠玉) をとり除き、金紫の衣を剥がさせた。さらに、官爵すべて剥奪した上で、官位についている子孫を嶺南 (レイナン) など遠方の地に流した。
安禄山は、この時までは楊国忠の肩を持っていた。しかし、宰相としての能力を持たぬ楊国忠を軽蔑し始めたため、二人の間にはたちまち溝が生じた。そこで、安禄山には謀叛の気配がありますと奏上したが、玄宗は耳を貸さなかった。
例えば天宝十三載 (754) の正月も、楊国忠は、 「彼には必ず反意があります、ためしにお召しになって御覧なさい、絶対に来ませんから」 と奏上した。ところが安禄山はすぐさまやって来た。のみならず、楊国忠の誣告を知って、玄宗に泣いて訴えた。
「臣は胡人の身でありながら、陛下のお引き立てでここまで出世させていただきました。それが楊国忠に傷つけられて、死んでも死にきれません」 。
玄宗は哀れに思い、巨額の金品を下賜した。皇太子も安禄山の反意に気づいて父帝に忠告したが、やはり聞き入られなかった。
かくして、悲劇の天宝十五載 (756) となる。その前年の十一月、ついに玄宗に反旗を翻した安禄山は、ただちに副都の洛陽を落し、年が改まるや自ら大燕 (ダイエン) 皇帝 (一説に雄武皇帝) と名乗り、国号を燕と定め、聖武 (セイブ) と改元した。
彼にも謀叛を起こすにあたっての大義はあり、それは楊国忠を誅すべしという、まことにもっともな名分なのであった。
首都の長安における楊国忠と、副都の洛陽における安禄山とが、互いに牽制しあってにらみ合いを続けているうちに約半年が過ぎた。六月の初めになって、官軍が攻撃を仕掛けたが、たちまち敗走し、潼関 (ドウカン) も陥落した。
長安は丸裸同然になってしまった。ことここに至って、玄宗は初めて危機感を抱き、宰相らを召して会議を開いた。楊国忠が玄宗の蜀への避難を提案し、帝もこれを容れた。
六月十三日の明け方、玄宗は楊貴妃およびその姉たち、皇子一族を伴って延秋 (エンシュウ) 門から長安を出た。従うのは楊国忠をはじめとする少数の側近と宦官や宮人たちだけである。
咸陽まで来て食事時になったが、食べ物がない。楊国忠が市場から蒸し餅を手に入れてきて献じた。また、帝の一行と知って、民衆は争って麦や豆入りの飯を献じたが、皇孫たちが素手ですくって食べ、あっという間になくなってしまい、それでも満腹にはならなかった。
皇帝の逃避行には、いつもあわれな話がつきまとう。時代はぐっと下り、今世紀のはじめ、義和団の乱による連合国軍の北京入城を避けて紫禁城から脱出した西太后 (セイタイゴウ) と光緒 (コウショ) の一行も、北京を出たとたんに食べ物に窮した。懐来 (カイライ) 県の知事である呉永 (ゴエイ) が小米粥 (アワガユ) とゆで卵だけを差し上げたところ、贅沢になれた西太后でさえ貪るように食べたという。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:中野 美代子 ヨリ