〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜

破局への (三)

それはともかくとして、玄宗の一行は六月十四日に馬嵬駅をに到着した。駅というのは、宿舎である。一行を警護する将兵たちは、飢えと疲れでいらだっていた。太子づきの側近が、禍のもとである楊国忠を誅すべきであると太子に進言したが、太子はまだ決めかねていた。するうちに、たまたま吐蕃 (チベット) からの使者二十人余りが、楊国忠の馬をさえぎって食料がないと訴えた。彼がまだ答えもしないうちに、その様子を見ていた兵卒の一人が、 「国忠が胡 (エビス) の奴らと謀叛の相談をしているぞ」 と叫んだ。そして、誰かが放った矢が、楊国忠の鞍に命中した。あわてて逃げる楊国忠に兵士たちが追いすがり、たちまち殺害するや、死体をバラバラにして、首を槍の先に突き刺して高く掲げた。
この騒ぎの中、楊国忠の子である楊喧 (ヨウケン) も、またれいの韓国夫人・秦国夫人も殺された。
?国 (カクコク) 夫人はその子裴徽 (ハイキ) および国忠の妻らといったんは逃げおおせたが、追っ手に捕らえられ、やはり殺された。
楊国忠誅殺の騒ぎを聞きつけて、玄宗は何事だと訊ねた。
楊国忠謀叛のことを奏上すると、駅門まで赴いて兵士を慰労し、隊伍を整えさせようとしたが、すでに天子の威令はゆきわたらない。側近の陳玄礼 (チンゲンレイ) が奏上した。
「国忠の謀叛が明らかになった以上、貴妃を伴うべきではありませぬ。貴妃への愛着を断ち切って法を正されますよう」
玄宗は 「この問題は、朕みずからで処理する」 と言って駅門に入ってしまった。
時はいたずらに流れていく。別の側近が、頭を床にに叩きつけ血を流しつつ、 「陛下、速やかにご決断を」 とうながした。玄宗が口を開いた。
「貴妃はいつも後宮の深窓にあった。国忠の反意を知るべくもないではないか」
楊貴妃を玄宗の後宮に入れるときもひと肌ぬぎ、以来ずっと貴妃の味方であった宦官の高力士が言った。
「たしかに貴妃に罪はありません。しかしながら、兵士たちが国忠を殺してしまった以上、貴妃が陛下のお側近くにあっては、どうして陛下御自ら安じていられましょう。とくとお考え下さい。兵士たちが収まれば、陛下もご安泰になるのです」
これで、決まった。・・・・・・
玄宗は、高力士に楊貴妃を縊殺 (イサツ) するよう命じた。当時は、貴婦人の処刑は賜帛 (シハク) (帛 (キヌ) を賜う。すなわち首吊り自殺用ないし縊殺用の帛を賜うこと) が多かった。
若き日の玄宗が、太平公主との権力争いにおいて、わずか一日だけ公主側のクーデター決行に先んじて公主をとらえ、帛を賜り、その結果として、長期にわたる安定政権を確立したことが思い出される。玄宗もまた、そのことを思い出していたに違いない。伯母に賜帛ことではしまった自らの政権が、寵妃に賜帛することで終焉しようとしている。・・・・・・
高力士が首を縊 (クビ) り殺した楊貴妃の亡骸は、庭に引きずり出され、陳玄礼などによってその死が確認された。ときに、楊貴妃三十二歳であった。
陳玄礼らは甲冑を脱ぎ捨て、玄宗に寵妃殺害の罪を請うた、しかし、帝は是を慰労し、将兵をまとめ先を急ぐように命じた。
これから後の事は、ここにしるすまでもない。七月、玄宗は皇太子の李亨 (リコウ) に譲位し上皇となり、やがて蜀の盛都に到着して、楊貴妃を偲ぶ涙とともに明け暮れる。
粛宗 (シュクソウ) の至徳二載 (757) に長安に戻り、上元二年 (761) 七十八歳で崩ずるまでの上皇としての玄宗は、みずから死を賜らなければならなかった楊貴妃の幻影との対話に生きていたが、それこそが老耄 (ロウモウ) というものであろう。
過ぐる日、安禄山の反乱軍を避けて玄宗が長安を落ちのび蜀に幸すべきだとの策を立てたのは楊国忠であったが、そのとき国忠は百官を集めてこういった。
「安禄山が反意を抱いてからすでに十年、幾度となく陛下にそのことを申し上げてきたが、信じていただけなかった。ことここに至ったのは、宰相たる私の過ちではないのだ」 もっともないい分である。
一方、安禄山は楊国忠打倒を表向きのスローガンに掲げ、反乱軍を起こした。
この双方をともに掌握できなかった玄宗に最大の罪があるのはもとよりであるが、若き日あれほど明敏であった玄宗が、親政に倦み一切を李林甫に委ねたときから、玄宗の悲劇は始まっていたのである。
そして、その玄宗に溺愛された楊貴妃は、楊国忠をはじめとする楊氏五宅の繁栄に結果的に手を貸しはしたものの、政治に口を出した形跡はない。それでは、なぜ楊貴妃がかくも有名になったのか。そのことを考えずに、楊貴妃の周辺を巡るさまざまなことがらの経緯だけを見ても、ほとんど無意味であろう。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:中野 美代子 ヨリ