〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜

華清宮での悦楽 (三)

この 「貴妃出浴図」 における宦官二人のうち、一人が高力士である可能性は、しかし少ないであろう。かれらは、浴後の結髪や化粧のために侍っている。
浴後の歓楽は、華やかな歌舞をともなう宴であった 。みずからの歌舞の名手であった楊貴妃が、興に乗って歌い、かつ舞うことも少なくなかったであろう。玄宗の宮廷における宴のシンボルは、有名な霓裳羽衣曲である。霓とは虹のこと。そこで、霓裳とは、虹の裳 (モスソ) すなわち仙女の衣の意となる。羽衣もまた、文字通り羽衣であるから、字づらからして、夢幻的な曲であろうというものだ。
いったい、この霓裳羽衣曲は、玄宗自らの作曲であるという説が有力である。羅公遠 (ラコウエン) なる道道の手引きで月宮殿に遊び、仙女たちの舞う音曲をおぼえて帰り来り、楽工を召して作曲した、と、玄宗には、この種の伝説多く、たとえば、病の床で夢に多くの小鬼を見、うなされていたところ、魁偉 (カイイ) なる容貌の男が小鬼たちを追い払い、夢からさめると病は癒えていた。
画家の呉道子 (ゴドウシ) を召して男の形容を伝え描かせたところ、夢で見たのと一つであった、それが鍾馗 (ショウキ) である、と。いずれも、芸術家肌の玄宗なればこそのエピソードであるが、わけても、霓裳羽衣曲の作曲にまつわる伝説は、その美しさのゆえに後世まで長く語り伝えられた。
この曲はまた、西域への節度使 (セツドシ) となった楊敬述 (ヨウケイジュツ) (敬忠とも) が作曲して献じたもの、あるいは、楊敬述が献じたインドの婆羅門 (バラモン) 曲に玄宗が手を加えて作曲したもの、などとも伝えられる。いずれのせよ、エキゾティックな名曲であったこと疑いなく、なればこそ、唐代の宮廷においては、晩唐まで舞曲として奏しつづけられた。つづく五代・宋では、舞は廃れたものの曲は残った。南宋の白石道人 (ハクセキドウジン) が記録した故譜が伝えられていて、近年はそれによる曲の再現が試みられており、舞の振り付けも一部再現されている。
玄宗の宮廷で霓裳羽衣曲がはじめて演奏されたのは、開元初というから、楊貴妃入宮のはるか以前である。にもかかわらず、この曲は楊貴妃と結び付けられることによって、玄宗朝のシンボルとなった。にち、安禄山の乱が勃発し、宮廷内が上下をあげての騒ぎとなったのを、白居易が有名な 「長恨歌」 において
漁陽ぎょよう?鼓へい こ地をゆるかしてきた
驚破す霓裳げいしょう羽衣 う いきょく
とうたっている。ここでは、霓裳羽衣曲という言葉は、美女を擁して佳麗な宴に明け暮れている玄宗朝の文化のすべてを象徴的に表現しているのである。ちなみに白居易には、別に 「霓裳羽衣歌」 あり、玄宗の時代より数十年のちの憲宗 (ケンソウ) の宮廷での演奏をうたっている。玄宗や楊貴妃とはすでに同時代人ではない白居易にとって、楊貴妃は霓裳羽衣曲のなかにまぎれこんだ、一個の文化史的存在となっていたのである。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:中野 美代子 ヨリ