〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜

楊氏一族の繁栄 (一)

唐の女禍 (ジョカ) 、つまり女による禍いという言葉もあり、武則天 (ブソクテン) ・韋后 (イコウ) ・楊貴妃の三人がもたらしたものだという。しかし、この三人を同列に並べるのは、いささかの無理があるのではないだろうか。
武則天は、知っての通り、たんなる悪女をはるかに超えた卓抜した政治家であった。皇帝の寵を恃んで政治を動かしてもらったのではなく、自らの意思と力で天下国家を動かしたのである。
原百代 (モモヨ) 氏があますところなく書ききっているように、恐るべき力で李氏の唐室をたおし、武周 (ブシュウ) を興して、中国史上唯一の女帝となった人物である。
唐室の側から見ると、憎むべき簒奪 (サンダツ) 者であり、また儒教論からも女帝なんぞは認め難い存在ではあるけれども、醒めた目で見ると、世上での通称たる則天武后という枠を大きくはみ出した一個の皇帝であったというほかない。 とはいえ、くりかえしいえば、武則天は唐室簒奪者という意味において、唐の女禍の最大のものであった。
これに比べると、韋后と楊貴妃は、まるっきりスケールを異にする。
韋后は、武則天の第三子李顕 (リケン) すなわち中宗 (チュウソウ) の皇后である。
中宗は、公宗亡き後即位したが、外戚たる韋氏一族に破格の厚遇を加えんとして廃され、のち武則天の老齢に乗じて唐室再興を願うグループに擁せられて、武周をたおし、重祚 (チョウソ) した。
性きわめて愚昧、韋后の意のままとなったあげくに、韋后および韋后との間に生まれた愛娘安楽公主 (アンラクコウシュ) によって毒殺された。韋后は、姑の武則天にならって、韋氏の王朝をつくり自ら女帝たらんとしたのだった。しかし、政治力も才能も皆無のまま愚かしい野望だけを先行させ、ついに李隆基 (リリュウキ) すなわち若き日の玄宗に、そのクーデターにおいて殺されたのである。
唐室の在位中の皇帝を殺したという点で、唐の女禍たること、疑いない。とはいえ、スケールにおいては武則天にはるかに劣り、また、文化史的象徴性をもつ楊貴妃と比べてみても、はるかに野暮で、かつ面白味に欠ける。
さて、わが楊貴妃が唐の女禍たるゆえんは何か。玄宗をして 「これより君王早朝せず」 (白居易 「長恨歌」 ) という状態に至らしめたからか。しかし、それなら、君王たる玄宗の方に、はるかに重い責任がある。いかなる皇帝も、あまたの寵妃をかかえているのが通例だからだ。これはやはり、唐室にとっては外戚にあたる楊氏一族が寵を恃んで栄達し、あげくは唐室の危機を招いたという、そのことに帰せられるのではあるまいか。もっとも、それもまた珍しいことではないのだが。
楊貴妃の縁者のなかの大ものは、なんといっても、楊サ (ヨウショウ) 、すなわちのちの楊国忠 (ヨウコクチュウ) であろう。楊貴妃からの血縁は遠く、いとこと言われているが、実際は、またいとこにあたるらしい。父同士がいとこという関係である。さきにも述べたように、楊貴妃ほど著名な女でも、その家族関係や閲歴などは、女であるがために不明であることが多い。楊貴妃に銛 (セン) という兄がいたことは確かであるが、弟であるとされるリ (キ) は、父の弟の子すなわちいとこであるらしい。くだんの楊国忠が楊貴妃のいとこであろうとまたいとこであろうと、話の大勢には影響がないのでここではまたいとことしておこう。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:中野 美代子 ヨリ