〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
華清宮での悦楽 (二)
さて、玄宗皇帝苦心の工作のすえ楊玉環すなわち楊太真
(タイシン)
を入宮させると、玄宗の華清宮への行幸がにわかに頻繁となった。
もっとも、そのころはまだ温泉宮と称していたのだが。華清宮という名になったのは、天宝六載
(847)
である。ともあれ、それまでも、避寒のための温泉宮へのおなりは珍しいことではなかったが、開元二十九年
(741)
以後は、とくにいちじるしい。けだし、楊太真への寵愛はそのころに始まったと見てよかろう。
こうして、天宝四載
(745)
八月、楊太真を貴妃に冊立するに至る。入宮していきなり貴妃に立てられるはずもないから、妃嬪として、より下位から上り、最高位をきわめたものと思われるが、そのあたりのこと、全く分からない。
ともあれ、かって皇后に立てようとして果たせなかったあの武恵妃すら、貴妃の一つ下のランクである恵妃にとどまったことを思えば、やはり異例のことといわなければならない。
それに、武恵妃は四人の男子を産んだという、いわば功績も大きかったけれども、楊貴妃はついに玄宗の子を産まなかった。
してみると、玄宗の楊貴妃への愛は、ひたすら、その美、その歌舞への才へと向けられていたのであろう。それに、楊貴妃は頭の回転も速かった。楊貴妃をともなっての華清宮への行幸は、ますます繁くなった。
華清宮は、もとの名を温泉宮ということからもわかるように、温泉である。今日でも、ここから湧き出る温泉で洗濯などをしている女たちを見かけるが、玄宗の時代は、おそらく想像を絶した瑰麗
(カイレイ)
な浴場であったにちがいない。楊貴妃一人のための浴場が新たにつくられたからである。
さきにあげた玄宗時代の宮廷画家周ム
(シュウボウ)
による 「楊貴出浴図」 は、後人による模写
(というより模刻)
が残っているが、模写とはいえ、周ムの実見した華清宮の浴場の感じられる点で参考になろう。
今日でいえば、大理石づくりの豪華な浴場というべく、精緻な細工を施したタイルが印象的である。右上に簾
(ノレン)
が巻上げられているが、その向こう側が浴槽のある部屋。そこにも、龍を彫った衝立
(ツイテテ)
らしきものや案
(テーブル)
が置かれ、贅美
(ゼイビ
) をつくした浴槽の一端がしのばれる。
玄宗の時代より約百年後に書かれた鄭處晦
(テイショカイ)
の 『明皇雑録
(メイコウザツロク)
』 によれば、かの安禄山は、新装なったこの華清宮の浴場のために、白玉石
(ハクギョクセキ)
をもって魚や鳧
(カモ)
や雁をつくらせて献じたというが、人工とは思えぬ出来栄えであったため、玄宗が入浴せんとしたときこの白玉製の魚龍鳧
雁 (フガン)
が、いっせいに鱗
(ウロコ)
をふるわせ翼を羽ばたかせているかに見え、びっくりして取り除かせたと伝えられる。
安禄山はまた、同じく白玉で石梁
(セキリョウ)
や石蓮花
( レンゲ)
をつくらせ、石梁は浴槽にわたし、蓮は水際にあしらったという。そのほか、文石の甃
(タイル)
を敷き詰めた銀鏤
(ギンル)
の漆船や香木の船を浴槽の中に置いたとか、東海に浮ぶ三靈山に見立てたものを浴槽に中に作らせたとか、もともと派手好みの玄宗のこととて、われわれの想像を越えた豪華絢爛たる浴槽が、ただ一人楊貴妃のためにつくられたのであった。
ふたたび周ム
(シュウボウ)
の作と伝えられる 「貴妃出浴図」 のもどるなら、出浴した貴妃を迎える二人の男が目につく。いやしくも天子の寵姫のなかば裸すがたの場面に男がいるとは、と訝しく思う向きもあろうが、かれらは宦官
(カンガン)
である。周知のように、唐代に限らず中国の宮廷には、後宮の雑事一切をつかさどる宦官がいた。去勢して男でなくなっている彼らは、皇后や妃嬪など、高貴な女たちの日常の用すべてに仕えるのがその任であった。入浴の時はもとより、天子を向かえての就寝の時も、いわばあられもない姿の后妃に仕え、そのからだに接して、全身拭ったり揉んだりなどしてさしあげるのである。結髪や化粧やドレス・アップにも、それぞれ専門の宦官がいた。
もちろん、皇帝の身のまわりの世話にも、宮婢
(キュウヒ)
とともに宦官があたる。玄宗の場合は、高力士
(コウリキシ)
が有名である。かれは少年のとき武則天に仕え、よろすに有能であったため愛され、のち皇子時代の玄宗と識りあい、以来ずっと玄宗の側近となった。玄宗の身のまわりの世話をする宦官たちを指揮してその安全を守ったり、寿王妃であった楊貴妃を入宮させるにあたっての、やっかいな手続きすべてを進行させるなど、玄宗にとっての高力士は、誰よりもなくてはならぬ存在だったのである。
現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:中野 美代子 ヨリ