〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜

華清宮での悦楽 (一)

いまの西安市街から東へ三十キロあまり行ったところに、驪山 (リザン) あり、そのふもとに、いまは遊覧の名将地なっている華清池 (カセイチ) がある。広大な池を巡って、朱塗りの柱が目を引く建物が点在し、いずれも、現中国になってからの修築であるが、外国人用の宿舎も設けられている。
ここを訪れる観光客は、きまって、この池が唐代および現代における重大な事件の舞台となったことを、ガイドから聞かされる。
唐代における大事件とは、これから述べる玄宗と楊貴妃の歓楽とそれがもたらした安禄山の乱であるが、現代における歴史的な事件のほうものぞいておこう。
1936年、当時の国民党は、対外的な抗日のために内戦を停止すべきだという世論をよそに、共産党すなわち紅軍の弾圧に熱中していたが、十二月、蒋介石は西安におもむき、紅軍掃討作戦の指揮に当った。そのような蒋介石の方針に反対であった東北軍司令張学良は、華清池にあった蒋介石の宿舎を襲った。蒋介石は着のみ着のまま窓から逃げ、驪山中腹の岩陰に身をひそんでいたが、捕らえられ、彼を人質とする各派の政治交渉が続けられたが、延安 (エンアン) から飛んだ周恩来の説得を蒋介石が呑むことで、彼は釈放された。
抗日統一戦線を成立させるための原則が、国共双方において基本的に合意されたのである。これを、世に西安事件という。
西安事件の立役者は、いうまでもなく、周恩来であった。彼は、蒋介石にとって命の恩人であったが、1945年の日本の敗戦の後に続く国共内戦は、この種の恩讐を越え展開され、1949年の中華人民共和国の成立によって一応の終止符をうつのである。
いま、華清池から驪山を見上げると、その中腹に 「促蒋亭 (ソクショウテイ) 」 というあずまやが小さく見える。蒋介石がひそんで、やがて捉えられたという地点を記念するために、現中国が建てたものだ。この華清池、粋な話ばかりを秘めているわけではない。・・・・・
とはいえ、いまは、千二百年前の、唐代は玄宗の時代にもどることにしよう。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:中野 美代子 ヨリ