〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜

寵幸を得るまで (二)

そうするうちに、武恵妃が開元二十四年 (736) に死亡し、寵妃を失った玄宗は、その後宮に意にかなう者もないままに索莫たる思いにかられていた。そんなとき、楊玉環の 「姿質豊艶」 ( 『旧唐書』 「后妃伝」 上) なることを奏した者がいた。
だが、知っての通り楊玉環は、玄宗にとっては、俗に言えば息子の嫁である。そこで、皇子妃のまま入宮させるわかにはいかないので、いったん女冠 (ジョカン) とすることにした。女冠とは、女の道士のことで、仏教における尼と同様、不犯 (フボン) の身となる。
過ぐる日、才人 (サイジン) として太宗 (タイソウ) の寵を受けたことのある武則天 (ブソクテン) は、太宗在世中に、太子時代の高宗と通じたことがある。太宗崩じて後、太宗に仕えた多くの女たちとともに尼寺に入って世捨人となったが、そこに微行してきた即位後の高宗と通じ、高宋の後宮に入った。つまり、武則天は父子二代にわたって通じたわけで、この点も、武則天が避難される理由の一つとなっている。
とはいえ、高宗が武則天を後宮に入れ、やがて皇后に冊立 (サクリツ) することが出来たのも、いったんは出家して尼になった女、という一種の免罪符があったからで、さらに高宗は、太子時代に父帝より賜ったのだ、といった旨の弁解の詔勅をも用意したのだった。
これに比べると、玄宗は息子の嫁を取り上げたのであって、現皇帝であり、かつ父であるという立場からすると、誰からも文句を言われる筋合いではない。それでもなお、いったんは女道士にして息子との縁を切らせるという形にしなければならなかったのである。
たとえば、武則天の生んだ太平公主 (タイヘイコウシュ) は、まだ幼い頃、外祖母の楊氏つまり武則天の母が死んだあとで、その生前の慈愛にこたえる追善供養をするために、女冠にさせられた。とはいえ、きらびやかな道士服をまとい、美しい道冠を頭にいただいた姿をしているだけで、道観 (道教の寺) に入るわけでもないし、宮中において楽しく遊び暮らしているだけだった。
のちに、吐蕃 (チベット) 国王が太平公主を所望した時、武則天は、太平公主がすでに女冠であって一生不犯の身であることを口実に、その要求を拒否し、いそぎ道観をつくって、形式的にではあるが、そこに住まわせ辻褄を合わせたことがある。
かって、太宗のころ、文成公主 (ブンセイコウシュ) が吐蕃国王ソンツェンガンポのもとに嫁いで、唐と吐蕃との平和にひと役買ったが、吐蕃はそれに味をしめていた。だから武則天が、太平公主が女冠であることを口実に拒絶したのはもっともであったが、かといって一生不犯の女冠たる太平公主を、吐蕃のほとぼりがさめた頃、薛紹 (セッショウ) に降嫁させ、薛紹の死後は武承嗣 (ブショウシ) と、さらには武攸曁 (ブユウキ) と結婚させたのは、なかなかの心臓であるといわなけらなならない。
いずれにしても、宮廷内の公主や妃嬪 (ヒヒン) などが女冠になるのは、多くの場合、なんらかのエクスキューズのためだったのであり、寿王瑁の妃であった楊玉環が女冠となって太真 (タイシン) と号したのも、息子の嫁に目をつけた玄宗の側の苦肉の策であったこと疑いない。
ちなみに、唐代の歴史をしるした劉? (リュウク) の 『旧唐書 (クトウジョ) 』 に見える楊貴妃の伝には、寿王妃であったのを玄宗が取り上げたとは書いていない。しかし、北宋初めの欧陽修 (オウヨウシュウ) らが撰した 『新唐書』 には、そのことを明記する。また、同じく北宋の初めの楽史 (ガクシ) による 『楊太真外伝 (ヨウタイシンガイデン) 』 もはっきりしるしている。 思うに、唐滅亡後ほどない後晋の人劉? (リュウク) には、玄宗のいわば不道徳な一面をかくそうとする意図があったのであろう。
ともあれ、武恵妃亡き後の寂寞を託ったいた玄宗は、寿王妃の楊玉環の美貌に目をつけ、これを女冠としていったん太真宮なる道観に住まわせ、寿王には別に韋昭君 (イショウクン) のむすめをあてがうなどした上で玉環を入宮せしめた。
さきの楽史の 『楊太真外伝』 は、楊玉環が女冠となったの年を開元二十八年 (740) 、玄宗の後宮に入った年を天宝四載 (745) としている。しかし、これでは、女冠としての楊貴妃は、約五年もの間道観ぐらしをしていたこととなる。すでに五十歳なかばを過ぎていた玄宗が、しんなに悠長に待っていたはずはない。女冠としての道観ぐらしは、どんなに長くとも、せいぜい一年と見てよいであろう。天宝四載とは、あとで述べるように、貴妃に冊立された年であると思われる。
ちなみに、楊玉環が女冠となった開元二十八年、玄宗は五十六歳、楊玉環は二十二歳であった。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:中野 美代子 ヨリ