〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜

寵幸を得るまで (一)

いかな楊貴妃といえども、正史に録される伝は簡略をきわめる。生年すらしるさないが、有名な馬嵬 (バカイ) での賜死の年が天宝十五載 (サイ) (756) で、三十八歳であったというから、逆算すれば開元 (カイゲン) 七年 (719) の生まれとなる。なお、玄宗は天宝三年を載 (サイ) と呼ぶように改め、その習慣は、天宝十五載の退位に続く粛宗 (シュクソウ) の至コ (シトク) 二載 (757) まで続いた。
幼名は玉環 (ギョクカン) という。父は楊玄? (ヨウゲンエン) 。ただし、早く亡くなったので、叔父楊玄t (ゲンキョウ) のもとで育てられた。
その後どういう経緯であったかは、詳らかにしないが、開元二十二年 (734) に、玄宗の第十八子で寿王 (ジュオウ) に封ぜられていた瑁 (ボウ) の妃として入宮 (ニュウキュウ) した。
そのころ、玄宗はあまたある後宮の妃妾 (ヒショウ) のなかでも、とくに武恵妃 (ブケイヒ) を寵愛していた。武恵妃とは、れいの武則天 (ブソクテン) 皇帝、すなわちいわゆる則天武后 (ソクテンブコウ) の従兄の子にあたる武攸止 (ブユウシ) の女 (ムスメ) にあたる。玄宗がクーデターで中宗 (チュウソウ) の皇后韋后 (イコウ) とそのむすめの安楽公主 (アンラクコウシュ) を血祭りにあげた景龍 (ケイリュウ) 四年 (710) 、韋后の一族と武氏一族は失脚し、女たちは幽閉されたが、武攸止の幼いむすめも宮婢の地位に落とされた。
それが十四歳のときに召されて玄宗の龍床に侍り、やがて帝の寵愛を一身に鍾 (アツ) めるようになって、恵妃の位を賜った。
ここで、宮中の妃嬪 ( ヒヒン) の制度について感嘆に述べておこう。時代によって異同があるが、唐代は隋代のそれを継承した。すなわち、皇后が最高位であることは言うまでもないが、その下に、貴妃 (キヒ) ・淑妃 (シュクヒ) ・徳妃 (トクヒ) ・賢妃 (ケンヒ) それぞれ一人 (以上を夫人と称し正一品に叙せられる) 、昭儀 (ショウギ) ・昭容 (ショウヨウ) ・昭媛 (ショウエン) ・修儀 (シュウギ) ・修容 (シュウヨウ) ・修媛 (シュウエン) ・充儀 (ジュウギ) ・充容 (ジュウヨウ) ・充媛 (ジュウエン) おのおの一人 (以上九嬪。正二品) 、?、 (ショウヨ) 九人、美人 (ビジン) 九人、才人 (サイジン) 九人、宝林 (ホウリン) 二十七人、御女 (ギョジョ) 二十七人、采女 (サイジョ) 二十七人、といったぐあいにつづく。
玄宗の時代に改称が行われ、貴妃 (キヒ) ・恵妃 (ケイヒ) ・麗妃 (レイヒ) ・華妃 (カヒ) (恵妃以下は三夫人) それぞれ一人、その下は淑儀 (シュクギ) ・徳儀 (トクギ) ・賢儀 (ケンギ) ・順儀 (ジュンギ) ・婉儀 (エンギ) ・芳儀 (ホウギ) の各一人、美人四人、才人七人とつづく。
さて、玄宗は太子時代から多くの妃妾をかかえていたが、即位と共に皇后に立てられた王后 (オウコウ) は、子が生まれなかったこともあって、開元十二年 (724) に廃后せられ庶人 (ショジン) (平民) に陥されていた。武攸止のむすめが恵妃を賜ったのは、王后が廃せられた後の事であるが、玄宗は武恵妃を皇后に立てようと思っていた。しかし、武則天の一族ということで朝臣の反対にあって果たせず、それでも宮中での序列などは、すべて皇后に準じて遇せられた。
この武恵妃は四男三女を生んだが、そのうちの一人が寿王瑁 (ジュオウボウ) である。楊玉環 (ヨウギョクカン) こと後の楊貴妃は、この寿王の妃だったのである。皇子妃となったときの楊玉環は数え年で十六歳であった。

現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:中野 美代子 ヨリ