〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
なぜ、楊貴妃なのか (一)
ある年の春、玄宗は楊貴妃を伴って、興慶宮 (コウケイキュウ) の沈香亭 (ジンコウテイ) に遊んだ。
興慶宮とは、長安城内の東端にあり、皇子時代の玄宗の邸があったところに、即位後の玄宗が建てた離宮である。天子の住まいは、長安中央の宮城であること、申すまでもないが、ほかの多くの天子たち同様に、玄宗も好みのこの離宮を愛し、開元十六年 (728) からは、興慶宮にて政 (マツリゴト) を聴くようになっていた。そのなかの、沈香亭というあずまやは、牡丹の花が美しいので知られていた。
その日も、玄宗は牡丹を賞でる宴を催した。宴の興にと、李亀年 (リキネン) なる歌手が、清平調 (セイヘイチョウ) というメロディにのせて、一曲歌おうとしたところ、玄宗が制して、 「せっかくの宴だ。清平調なら李白に新しく作詩させ、その歌詞で歌え」 と命じた。宿酔 (フツカヨイ) さめやらぬまま召されて李白は、沈香亭に咲きほこる牡丹と楊貴妃の美しさを見て、ただちに、 「清平調詞」 三首をつくった。
清平調詞 (其の二)清平調詞 (其の三)
いつ 紅艶こうえん つゆ 香を らす

うん ざん むな しく腸を断つ

借問しゃもん漢宮かんきゅう 誰か似るを得たるや

れん えん 新粧しんしょう
名花傾国 ふたつ ながらあい よろこ

とこし えに君王くんのうえみ を帯びて るを得たり

春風 無限の恨みをほぐ

沈香亭北じんこうていほく 闌干らんかん
其の二の 「紅艶」 、其の三の 「名花」 、ともに牡丹を指していること、いうをまたないが、紅艶は、そのまま楊貴妃でもある。牡丹にもたとえられるよう貴妃を前にしては、むかし楚の襄王 (ジョウオウ) が巫山 (フザン) の夢のなかで雲雨の情をかわし、夢さめて巫山の女神と知って、むなしく切ない思いをしたという美女も、ちょっとかなうまい。
そこでおたずねするのだが、あまたの美女をかかえていた漢の後宮 (コウキュウ) で、この楊貴妃と競うことができるのはどなたかな。
ほれ、ぞくっとするほどのあの趙飛燕 (チョウヒエン) が、化粧を済ませてほこらかにしている姿、ぐらいであろう。
名花たる牡丹、傾国の美女、あいともに歓楽の最中。なればこそ、それを見守る天子の笑み。春風がもたらす愁いに満ちた感傷も、おのずとほぐれ、美女はいま、沈香亭の闌干 (テスリ) にたおやかにもたれかかる。
──李白によって、楊貴妃が牡丹にたとえれれたことは、詩的レトリックとしては異とするに足りないが、文化史的には、まことに大きな意味を持ったと思われる。
いったい、美女の基準は、時代と共に変遷する。そして、それぞれの時代の文化的好尚 (コウショウ) と微妙に相関する。
牡丹にたとえられた楊貴妃は、「紅艶 (コウエン) の語が示すごとくに、佳麗にして豊満というイメージをもつ。楊貴妃を写実的に描いた肖像画は残っていないが、玄宗の時代の宮廷画家であった張萱 (チョウケン) や周ム (シュウボウ) の作品のなかに、楊貴妃を描いたものがあり、後人による模写が、いまに伝えられている。例えば、張萱の 「明皇納涼図 (メイコウノウジョウズ) は、入浴後の明皇すなわち玄宗が楊貴妃らしき美女と納涼しているところを、周ムの 「楊貴出浴図」 は、楊貴妃がまさに浴槽からあがったところを、それぞれ描いているが、しもぶくれの顔と太肉 (フトリジシ) のからだが特徴的である。
これより先の絵画における美女の姿は、しもぶくれの顔は同じでも、からだつきはほっそりしている。たとえば、玄宗とは従兄弟にあたる懿コ (イトク) 太子すなわち李重潤 (リチョウジュン) の墓は、八世紀はじめに乾陵 (ケンリョウ) (玄宗の祖父である高宋の陵) の陪塚 (バイチョウ) としてつくられたが、その壁画に描かれている官女の姿は、まさにその通りである。同じく乾陵の陪塚の一つとして名高い永泰公主 (エイタイコウシュ) 墓の壁画に見える官女たちも同様の姿をしている。
現代視点・中国の群像 楊貴妃・安禄山 旺文社発行 執筆者:中野 美代子 ヨリ