楊貴妃が玄宗の寵愛を受けたのは、あとで述べるように、玄宗晩年のことであり、従って、張萱や周ムによって描かれたのは、八世紀なかばであるといえる。つまり、わずか半世紀の間に、美女の条件はほっそりとした体つきから、太肉のグラマーへと変化したのであった。そして、事実、そのころ以降に描かれた美女たちは、楊貴妃を理想としたにちがいないしもぶくれのグラマーとして表現されている。わが高松塚の古墳の壁画に見る女たちも、そのような盛唐の美女たちの末裔なのであった。
さてここまでくると、李白が楊貴妃を牡丹にたとえたのも、過剰な詩的レトリックとはいいがたくなる。唐人は、牡丹をあまたある花の王者と考え、これを花王と称した。これに次するものは芍薬
(シャクヤク) である。いずれも大振りな派手な花であることに注目されたい。 唐亡び、五代を経て宋となってのその最盛期の十一世紀。思想家として名高い周敦頤
(シュウトンイ) は、その 「愛蓮説 (アイレンセツ) 」 でこう書いた。 |