~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
 
~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
第三章 恋の罪人 (二十五)
北の方は、自分の部屋へ戻りながら、二人に憎悪を感じている。男が、「北の方に腹を立てさせておけばいいじゃないか」と言ったのは、おちくぼが北の方のことを男に告げ口したのであろうか、あることないこと言ってるんだなと思うと、ことにおちくぼが憎らしかった。
部屋へ帰って横になったが、北の方は眠れなかった。
(おのれ、どうしてくれようか、大殿さまにううつけて・・・)
いやしかし、夫の中納言は却って喜びのではないか。あの男のあの男の容子を見れば、容貌も美しく、身分高い人しか着ない直衣を用いている、貴公子ならこれ幸い、中納言は娘の婿にと、結婚を公表するかも知れぬ。
北の方は、どうかして姫君を結婚させたくないのであった。夫と名のつく男を持たせたら最後、もはや男の言うことだけを聞いて、北の方の命令には従おうとしないだろう。北の方は、自分の勢力範囲から姫君がはみ出してしまうのがいまいましくてならないのである。現実問題としても、あんなに腕の立つ、無報酬で働く縫子を失うことは、大変な損害である。
(そうだ、やはりここは、帯刀と通じていると大殿にはごまかしてやろう。おちくぼを離れた所へ一人おいといたから、あんなことになったのだ。部屋に閉じ込めて監視してやろう。もうあんな男に、なんで、“腹を立たせてやれ”などと言わせるものか)
考えるとますます憎らしい。そうして、それからそれへと、考えをめぐらす。
(おちくぼを閉じ込めて監視して、手紙のやりとりもさせぬようにしよう。そうしているうちに、男はあきためて忘れてしまうだろう。・・・おちくぼの方は、そうだ、いいことがある!)
北の方はにんまりした。
(私の叔父の、典薬の助、居候めが、おちくぼに年甲斐もなく惚れていたっけ。いい年をして色好みのあの男に、おちくぼをやろう。そうしたらこの邸も出られなくなるし、今まで通り縫子で使えるわけだわ)
北の方が、そんな策略をめぐらしているとも知らず、姫君と少将は、しっとしした夜を交して、暁に、少将は帰って行った。
姫君はそれからすぐ縫物をはじめた。北の方は(出来上がっていなかったら血が出るほどこっぴどく叱りつけてやろう)と思って使いに縫物を取りにやらせた。
使いはすぐ、縫いあげられて美しく畳まれた衣裳をたずさて帰った。北の方はあてがはずれて、それゆえにまた、はけ場のない悪意と邪念が、心にふくれ上ってゆく。
北の方は、夫の中納言の起きるのを待って、
「朝から、こんなこと申し上げたくないのですけれどねえ・・・」
と、うれわしげな顔をつくり、声をひそめて話していた。
そのころ、姫君は、少将から来た手紙を読んでいた。
「いかがですか、夕べの縫いかけたものは出来上がりましたか。北の方はまだ腹をたてていませんか。ようすが聞きたいものですね。
ところで、笛を忘れて来ました。使いにお渡し下さい。これから御所の管弦の御遊びに参上するのです」
とある。ほんとうに少将は、香をよくたきしめた笛を忘れていた。姫君はそれを包んで使いに渡し、手紙をつけた。
「北の方のこと、そんな風におっしゃっては、人聞きも悪いですわ。縫物が出来上がったので、北の方はご機嫌よくにこにこしていらっしゃいます。それより、笛のように大切なものをお忘れになるのですもの、わたくしのことをお忘れになるのは無論ですわね」
少将は、その手紙が可愛くて、また返事をやった。
「忘れるはずがないでしょう。笛の音の絶えぬように、あなたとの仲も永遠ですよ」
恋人たちが、平和に、満ち足りた気分でいたのは、そのときまでであった。
2026/05/20
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