~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
 
~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
第三章 恋の罪人 (二十一)
姫君は灯をともして、縫物をはじめようとしていた。
阿漕は、帯刀が午後から、「ぞくぞく寒気がしてくるよ」というので、自分の部屋に寝かせていた。姫君が灯をともして縫物をはじめるようすに、もう北の方も来るまいと安心し、自分の部屋へちょっと退がった。
少将は、姫君の手から、縫物を取り上げ、
「お止しなさいったら ── 夜なべは目の毒ですよ・・・それより、もっと楽しく、有意義なことに時間をつぶすべきですよ」
と几帳の内へ連れ込む。姫君は、よんどころなく、引き寄せられていった。
北の方は、姫君が縫物をしているかどうかいったん気になると、かたくなに、そればかり気になる。それで、ひそかに、またやって来た。
と、部屋の中に人影はない。縫物はひろげられ、散らかったままで、灯はともっているが、しんとしている。
(几帳の後ろで眠っているんだな)
と思うと、かっとして、思わず大声が出た。
「大殿さま、まあ聞いて下さいましよ、大殿さま!」
北の方は、夫の中納言の居間へ聞こえるように、大声で叫びながら、ばたばたと駆けて行く。
「落窪の君をお叱りくださいまし、大殿さま、何て可愛げのないひとでしょ、こんなに急いでいる縫物を、まあほったらかしにして、どこからか引っぱり出して来た几帳を、えらそうに立てて、そのかげへ入っては寝、入っては寝、して、なまけてるんでございましよ、ま、いっぺんここへいらして、ちゃんとお叱り下さいまし・・・」
中納言の声が遠くでしている。何でも、よく聞こえない、何言ってるんだね? と聞いているようであった。北の方は、そちらの部屋へ行ったので、きんきんした怒り声が遠くなった。
「落窪の君、とはどういうことだろう・・・」
少将は、それが姫君のあだ名だということ知らない。姫君は恥ずかしくて、
「さあ・・・」
と言っていた。
「おちくぼ。なんてへんてこな名だろう。下女の名だろうね、下品な名だね」
少将は何心もなくそう言いながら、
「さあ、さあ、北の方もあっちぇ行ったことだし、今夜一晩は、まあ、ゆっくりなさいよ・・・」
と、むりやり姫君を抑え込んでしまった。
しかし北の方は、それでうっちゃっておくつもりはないのであった。こんどは、ほうを裁って、姫君に縫わせようとしていた。これは、礼装のいちばん上に着る上着である。
また縫わないかも知れない、と思い、北の方は、夫の中納言から叱らせようと思った。
「なまけ心が起きて、ちっとも仕事をしないのですよ。こっちの忙しいのも、知らぬ顔ですからねえ。心ねじけの強情者ですのよ」
中納言は単純なところがあるから、娘に腹を立てた。男は、というより、夫は、単純なのである。
「うちの縫物はせずヨソの縫物をしてるんですよ。やり方が憎らしいじゃございませんか。私などは馬鹿にしていますから、大殿さまからいっぺん言って下さらなければ」
中納言は火のつくように責められて、自分が出なければいけないこよで腹を立て、足音たかく落窪の間へ来た。引き戸を開け放つなり、老人性短気から、雷のようにつづけざまにわめきちらした。
「これ、おちくぼ。お前はいったい、どういう了簡だね。北の方のいいつけに従わないというのは。母親もいない娘は、どうかして人によく思われ、可愛がられようと心がけるのが本当だ。これほど家の縫物を急いている時に、ヨソの仕事をするとは何を考えておるのか。今夜中に縫いあげないなら、もう家の娘とは思わん。どこへなりと行くがよい。この心ねじけの強情者め」
そう言うなり、姫君の返事も聞かず、ぴしゃっと戸を閉めて帰ってしまう。
姫君は悲しいやら、情けないやらで、しくしくと泣き出してしまった。
恥ずかしいのは、少将に、老父の罵言を聞かれたことであっる。「おちくぼ」という「へんてこ」な名が、自分のあだ名だということを知られてしまったと思うと、今すぐにでも死んでしまいたい気がして、縫物をわきに押しやり、灯の暗い方に向いて泣き沈んでいた。
少将は姫君があわれで、いじらしくてならない。おちくぼというのは、この人につけられた名だったのか、さりとは、ひどい言いようをする。自分が下品な名だね、と言った時、この人はどんなに恥ずかしかっただろうと思うと、可哀想で、
「まあ、こっちへいらっしゃい」
と、几帳の中へ入れて、
「あなたが心ねじけの強情者でないことは私がいちばんよいう知っていますよ。お父上の言われることなど、気にすることはありませ。あれはきっと、北の方の口ういつしで言ってらっしゃるだけですよ。── なあに、男というものは、たいてい、妻の言うことを、うのみにするもんだから。・・・みんなは誤解しているが、いまにあなたの気持がわかってもらえるときがくるから、ね・・・」
少将はそう慰めはすいるものの、心の中では、父親の、中納言にも、憎悪を抱いた。
(継母が辛く当たるというのはわかるが、実父の中納言もいっしょになって叱りわめくとは、どういうことだ。本当を言うと、そんな奴は男ではない。私なら、妻の言う通りになんか、ならない所だが──。どうかしてこの人を幸せにして、あんな連中を見返してやりたいものだ)
2026/05/15
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