「帯刀は、
泔坏
を取り片付けていた。泔というのは、米のとぎ汁である。この水で髪を梳くと、髪の質をよくすると信じられていた。この汁を、銀の美しい蓋付の椀に入れ、蒔絵の美麗な台に載せておくのである。
泔坏を台に飾り、手を拭いて、席を立とうとして、帯刀はふと、手紙はあるかと懐に手をうやった。
ない。
おかしいぞ、とふたたび探って、手に当たらない。ぎょっとして帯刀は青くなった。
(おいおい、惟成、冗談じゃないぜ)
と自分で自分に舌打ちしながら、あわてて着物の紐を解いてふるってみたが、手紙は出るべくもない。
帯刀は青くなったのが、今度は赤くなった。あわてて、敷物のうすべりをふるったりする。
(おかしい! この部屋のほかへはいってないんだから、落としたとしても、ここ以外ににはずだが・・・。人に拾われたのだろうか。北の方の手にでも入ったら、大ごとだぞ)
何より、手紙を失ったということになれば姫君にも、右近の少将にも申し訳がたたない。
さすがの帯刀も、呆然として、どうしていいかわからない。そこへ蔵人の少将が、三の君の居間から出て来た。
「どうした、惟成。何をしょげている。何か落とし物でもしたのかね」
とからかった。帯刀ははっと悟った。蔵人の少将に拾われたのだ。
「お願いでございます。お拾いになったものをお返し下さい」
帯刀は強いて何でもないように平静に言おうとしたが、緊張して語尾が震えた。
「何の話だね? 何をあわてているんだ」
蔵人の少将は面白がっているのである。
「私は何のことか、わからないよ。ただ、私の妻が、おやおや、惟成のお目当ては阿漕だと思ったら、とんだ方角違いだった、と言っていたよ。何の話だか、さっぱり、私にはわからない」
と笑い捨てて、出て行ってしまった。
三の君の手許まで、姫君の手紙が渡ったとなれば、もはや北の方の目にも触れたと思わねばならぬでありう。
「殺生でございますよ、殿、何とかお取戻しを・・・」
と泣きべそをかいて追ったが、蔵人の少将はもはや、笑うのみで取り合わない。少将にすれば、ちょいとしたいたずらにすぎない。
どれだけ取り返しのつかないことか、わからないのである。
(どうしよう・・・阿漕はどんなに怒ることだろう。子供じゃあるまいし、こんな幼稚な失策をやってのけるななんて)
と、帯刀は消え入りたい思いで、うちひしがれていた。しかし、阿漕に相談する以外、どうしようがあろうか。
「何ですって! お姫さまのお手紙が、北の方のお手に渡ったって言うの!」
阿漕は、水を浴びたようにゾッとした。
「まあ、何てこと、してくれたの!」
と嘆いても、あとの祭りである。
「それでなくてさえ、北の方は、お姫さまを怪しんでいらっしゃるのに、手紙を読まれたら、どんな大さわぎがもちあがるか、わかりゃしないわ」
「すまん、申し訳ない」
「少将さまにも、どう言い開きをするの? 何より、お姫さまに顔向けできゃしないわ」
阿漕は泣き顔になった。動転していて、帯刀を責める言葉さえ出て来ない。
姫君が、どんなに北の方にむごく糾明されるかと思うと、いても立ってもいられない思いなのだ。
その頃、三の君は、北の方に手紙を見せていた。
「惟成が落としたそうですけれど、どうも見覚えがあると思ったら落窪の君の手なんですよ。いやだわ、落窪はあんな男を恋人にしたいのかしら」
北の方は手紙を読んで、腹が立った。自分の知らない所で、いつの間にか人なみな恋愛ごっこをしているらしいのが、
「なまいきではないか」
とおだやかではない。
「そうだと思った。どうも、石山詣でから帰って来ると様子がおかしかったのよ。男がいるんじゃないかと、睨んだ通りだったね。まあ、あんなしおらしい顔をして、いつの間に、そんな勝手なことを。帯刀が手紙を落としたというなら、相手は帯刀なのかしら? 帯刀は阿漕の所へ思っていたけれど、そう見せているのは策略だったのかも知れないわね」
「惟成は、それで見ると、自分の家に落窪を迎えるつもりらしいですわ、お母さま」
三の君は、落窪の君の情こまやかな手紙に嫉妬していた。仲のいい恋人たちに対して、三の君はねたましさを覚えるのである。それは、蔵人の少将とのしっくりしない仲を思い合わせるからである。
「そんなことさせるものか!」
北の方はいきり立った。
「あの落窪は一生、この邸に飼い殺しにして、裁縫女にしておこうと思っているのに。男なんかがつくと、とても物を縫ってなどいないだろうよ。ちょうどいい裁縫女だと思って重宝していたのに、まあ、どこの盗人が、通って来て掠めたんだろうねえ! あんな子は男にも会わせず、ただ、仕事だけ与えておけばいいのだよ、私の目をかすめて、何という大胆なことをするんだろう!」
北の方は興奮して、今にも落窪の君を打擲ちょうちゃくするために走って行きそうだった。
「でもね、この手紙のことはしばらく口外するんじゃないよ。あまり騒ぎ立てると、あの子を男が連れて逃げるかも知れない」
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