~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
 
~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
第三章 恋の罪人 (十二)
その日は、一日中、姫君の部屋に、少将は籠っていた。夜をこめて、姫君と語りあい、夜明け、まだ暗いうちに、帯刀を従えて、少将は帰って行った。
姫君は、その後姿を見送りながら、急変した運命が、まだ信じられない程だった。灰色の生活の中に、一部分、あけぼの色がさし初めたようで、生きる希望が湧いて来るような思いである。
もとより、その希望は少将がもたらしたものでる。嬪君は、もうはや、少将を慕わしく思いはじめている。心の拠り所が出来たような気持で、ふしぎな平安の中に、姫君はいるのである。
(あのかやのめぐり会うために、わたくしは今日までを生きていたのかしら?)
と姫君は思った。
(でも、ほんとうに、あのかたと添いとげるなどということが出来るかしら? 北の方によって、引き裂かれるのではないかしら?)
姫君
の希望は絶望に裏打ちされているにであった。
それにしても、姫君は、見馴れぬ几帳や、りっぱな食事がととのえられたことを、嬉しく思いつつも、不審でならなかった。
「阿漕や、どこからこんなものを取り寄せてくれたの? 嬉しかったわ、少将さまをおもてなしできて」
と姫君は言った。
「ええ、あのとき、ちょっと申し上げましたが、叔母のもとから、みな調達したんでございますよ。叔母の手紙をお見せいたしましたでしょう? よくしてくれまして、大助かりでございましやわ」
「ほんとうにねえ。とくに几帳が嬉しかったわ」
「必需品でございました、もしなければ、少将さまを隠すことが出来なくて、北の方さまをびっくりさせたことでございましょう」
と、二人で思わず笑う。姫君は、阿漕の奔走ぶりが可愛かった。たった一人であれこれと心を労してよくやってくれたと思う。まだ若い身で精いっぱい考えて献身してくれるのが、姫君はしみじみとありがたかった。
「この御恩は、忘れないわ、お前は最高の後見役だわ。ありがとう」
「何をおっしゃいます。勿体ない。当然のことじゃございませんか。── 私のことより、うれしくありがたいのは少将さまのご愛情ですわ、帯刀が申しますには、少将さまはほんとうにお姫さまに恋していらっしゃるのだそうです。はじめのうちこそ、打ちあけて申せば、お戯れ心があったらしのですが、今ではもう、浮いたお気持ちではなくて、お邸へ迎えとりたい、というご意向らしゅうございますよ」
「まあ、でも、そんな・・・。北の方も、お父さまも、とてもお許し下さらないかも知れないことよ」
「いいえ、あの少将さまは、男らしい方ですもの、きっとご自分の意思をお通しになりますわ。もしそうなって、お姫さまが幸福なお身の上になられたら、お姫さまを見下げているこのお邸の人々の鼻を明かしてやることが出来て、どんなに嬉しいか・・・」
二人の話は尽きなかった。

少将はその夜は宮中に参内さんだいして宿直とのいをしたので、通うことが出来ない。それで、手紙を書き、夜が明けるのを待ちかねて帯刀を使いに出した。
少将の手紙はこうである。
「昨夜は内裏うちに参内して参宿直をしたため、そちらへ伺うことが出来ませんでした。そのために、どんなに阿漕が惟成を痛めつけただろうかと思うと、私は恐ろしくなります。この家来にしてこの主人あり、というところですか。
ともあれ、今の私の心境としては“あひみての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり”という所です。あなたに会わなかった昔の私の生活は、単調で平凡でした。今は一夜あなたに会わないでいると、堪えられません。あなたは、遠慮したり気がねしたりすることの多い境遇ですから、ぬけ出したいとお思いになりませんか?
私にすべてを託して、私の腕に飛び込んで頂きたいのです。気楽に、たにしくあなたが過ごせる住いを、用意いたしますから、そのおつもりでいらして下さい。
                            あなたの しもべより」
こまやかな愛情あふれる手紙だった。
「お返事を頂戴しとう存じます」
帯刀はそう言って、待っている。
阿漕は、姫君の読んだあとで、ゆるしを得て、少将の手紙を見た。姫君と一心同体のつもりでいる阿漕は、少将の手紙を検閲しないではいられないのである。
「お前のことが、書いてあったよ」
と姫君は笑いながら示した。
阿漕は手紙を読んで、帯刀に文句を言った。
「まあ、あんたったらあたしのことをよっぽど悪く、少将さまに告げ口したのね」
「そんなこと、ないさ。少将の冗談だよ」
「でもこのお手紙で見ると、あたしはまるで鬼か、じゃのようじゃないの、いやだわ。あたしはただ、誰にも愚痴を言ったり相談したりする人がいないから、あんたにうちあけることになるのよ、それで、しぜんとあんたといさかうこともおきるのだわ」
「お前の姫君思いはわかってるよ。だけど、そのイライラのとばっちりは、みな、おれにくるのも事実だからね」
と二人が、楽しい口喧嘩をしている間に、姫君は、手紙を書き終えて、帯刀に託した。
「夕べは、泣いていました。早くもお飽きになったから、おみ足が向かれないのかと思って。
お顔を見ないと、不安で、わたくしは愛されていないのではないか、辛くなります。
住み家を用意するとおっしゃるお言葉、大変嬉しゅうございますが、この邸を私が出ますのは困難が多いことでしょう。
わたくしを怖がられるのは、変なことですわ。阿漕は、あなたさまにお気持ちがあるものだから、恐れていられるのだと申します。わたくしに、やましいお心を持っていられるのですか、本当に?」
しかしこの手紙は、阿漕は見せてもらえなった。姫君は、少将とのひめごとを、阿漕にさえも知られるのを、羞ずかしがっていた。
帯刀は、姫君の返事を、押しいただいて退出した。
その時、三の君づきの女童が走って来て、
「帯刀さん、若殿さまがお召ですよ」
と言う。若殿といえば、三の君の婿である蔵人の少将であえる。
帯刀は、蔵人の少将に仕え、その従者の一人でもあるから、かしこまってしぐさま参上す入る。姫君の手紙を隠すひまもなく、とりあえず、ふところに入れて急いだ。その軽率さが、後に大事件の原因になろうとは、神ならぬ身の、知るよしもないことであった。
2026/05/06
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