~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
 
~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
第三章 恋の罪人 (十一)
北の方が出て行くなり阿漕は、
「また奪られましたわ」
と憎らし気に言った。
「あの鏡箱は立派な品物なのですよ。残念ですわ。北の方が、お姫さまに何かを下さることは絶対ないのに、お姫さまのお持ちになっている道具類は、片っ端から取り上げられるのですからね。もうせんの、北の方の姫君たちのお婿取りの時もそうでした。修繕してあげるとおっしゃって、屏風や何やかや、みんなお取り上げになって、ご自分のお部屋や、姫君たちの居間で、まるでわがもののように使っていらっしゃいます。しまいに、お姫さまのお食事のお椀さえ、塗が美しいとおっしゃって持っていってしまわれました」
「いいのよ阿漕・・・」
姫君は、恋人の少将の耳に、恥ずかしい内輪話など入れたくなかった。しかし阿漕は腹を立てて夢中になったいるから、姫君の制止などきかず、しゃべり立てている。
「こうなったらお父君さまに申し上げますわ。あんまりですもの。お姫さまのお持ちの調度類は、みな、母君からお譲られになった遺産ですもの、黙って取られている手はありませんわ。そのうちに、お姫さまのものは見ている間に、北の方の姫君たちのものになってしまいます。お姫さまはお人がよくていらっしゃるから、何でも、二つ返事で承知なさいますが、そうだからと言って、あの北の方が、お姫さまに礼の一つのおっしゃいますか」
姫君は、阿漕が口を尖らせて怒っているのが、しまいにおかしくなってきた。
「いいじゃないの、貸して下さい、と言われたのだから、しばらくしたらまた反して下さるでしょう」
姫君は、ほんとにそう信じているのである。
「そんなにのんびりしていらっしゃったら、ほんとに裸にされておしまいになりますわ。お姫さまのもの、あと何がもこっておりますか・・・」
少将は、姫君と阿漕のやりとりを聞きながら、おっとりした姫君の気高いお人よしぶりを好もしく思った。几帳を押しやって出て来ると、姫君を抱き寄せながら聞いた。
「北の方はまだ若いんだね。北の方の腹の姫君たちは北の方に似ているの? それなら美人ではないだろう」
「いいえ、みな美しい方よ。可愛くて。あなたは、北の方のふだんのつくろわれないお姿をご覧になったから、そうおっしゃるのですわ。きちんと身じまいなさると、北の方はお美しいのです。でも、北の方は、もし、あなたが覗き見していたとお知りになったら何とおっしゃることでしょう」
と姫君は笑った。少将は、姫君がうちとけて、笑い声を立てるほど、少将に馴れてきたらしいのが嬉しかった。可愛さが増すばかりである。少将は姫君を得たことを心から幸福に思った。
「御方さまかでございます」
あこ君という女童が、北の方の使いでやって来て、鏡箱を阿漕に渡した。
取りあげた鏡箱の代わりを、北の方はよこしたのである。
見ると、これがひどいしろものだった。黒い漆塗りの、九寸四方の箱で、深さは三寸ばかり、おそろしく古色蒼然として所々剥げたりしている。何ともみすぼらしい中古品である。
「これは、蒔絵はないけれど、漆が枯れて大変いい品物です、と北の方がおっしゃいました」
あこ君が伝言を言った。
「漆が枯れて、ねえ・・・なるほど。こんな剥げちょろけに、まあ、物も言いようだわ」
と阿漕は吹き出しながら、姫君の鏡をその箱の中にいれてみた。大きさが違い過ぎる上に、あまりにも薄汚い箱なので、阿漕は気を悪くして、
「なあに、これ。みっともないったら、ありゃしない。お姫さま、こんな箱にお入れにならない方がようございますわ、これくらいなら、ずっと出しておかれた方がまだ、ましですわ」
と言い騒いでいた。
姫君は、困ったように、
「まあ、いいじゃないの、そんなことを言ってはいけないわ」
とたしなめて、使いのあの君には、
「あろがとうございました。結構なお品です、と申し上げておくれ」
と言って帰した。
「どれ」
少将は、鏡箱を手に取ってしげしげと見た。
「ほほう、北の方はよくまああ、こんな古風なものを見つけ出されたもんだね。中々、こんなのは当世、ありませんぞ。めったにお目にかかれない年代ものだな。北の方のご好意を、徒やおろそかに思ってはいけないよ」
と言い、三人は声を合わせて笑った。」

2026/05/05
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