~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
 
~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
第三章 恋の罪人 (九)
露は、盥や半挿の支度を射ている。目のまわるような忙しさへもってきて、
「阿漕! どこにいる!」
と久しぶりの北の方の声が響き渡った。腹立たしいときの北の方は、 はり までゆらぐような声を放つのであった。
「は、はい・・・」
阿漕はあわてて南面へ走って行く。車から下りた北の方が、阿漕を探し求めているのであった。そのあたりは、くたびれた女たちが、大さわぎで車から下りようとしたり、荷物を取り込んでいたりして、ごった返していた。
「お帰りなさいまし」
「お帰りなさいまし、もないものです。今まで何をしていたのだえ!」
「はい、あの・・・」
「石山帰りの女房たちはみなくたびれているのだよ。お前はこの間から休んでいたのに、どうしてすぐ迎えに出ないのです」
「申しわけございません」
「全く役に立たないねえ、お前は。また落窪の君のところで油を売っていたのだろう。二人揃って追い出してしまうよ」
(そうなった方が有難いわ)
と阿漕は内心思っている。
「お許し下さいまし、あちらで汚れ物を片付けておりましたので、お帰りに気付かず、申しわけないことをいたしました」
阿漕が詫びると、北の方はふくれたままで、
「ともかく早く、手水ちょうずを持っておいで」
と命じた。阿漕は姫君の方に心を残しながら、うわの空で、北の方や三の君たちの世話をしている。
そのうち、旅の埃を払い、手足を洗った中納言の家族は、やっと食膳についたので、阿漕はまた、大急ぎで姫君に方へ戻って来た。
露がひとりで、けんめいに食膳をととのえているところだった。阿漕はねぎらって、見た目に美しく朝食を調達し、姫君たちに出した。
(無理をしたな、こんな場合に ──)
と少将は阿漕の心根をけなげに思う。姫君はまして、
(どうしてこんなにたくさん、少将さまに恥ずかしからぬように出来たのかしら)
と思うと、阿漕の苦労がよくわかるので胸がいっぱいになって食べられなかった。
少将も、昨夜の餅がこたえたのか、ほんの少し箸を濡らせる程度にしか、食べられない。というより、彼方で聞こえる物音や人声が、おちついて食事をさせてくれないような雰囲気だった。

阿漕はそこで、おさがりのご馳走をきれいにお椀やふたものに盛って、帯刀に食べさせた。帯刀はびっくりして皮肉に言うのである。
「いやはや、これが、おれの分かね?」
「そうよ」
「お前の所には長らく通ったが、こうも待遇がよかったことはないね。こんな結構なおさがりがあるってのはつまり、少将さまのおかげだろうね。持つべきものは、甲斐性あるご主人さまだな」
「少将さまが、お姫さまひとすじを守られるように、あんたにも骨折ってほしいの。少将さまの浮気をようく見張ってほしいのよ。そのためのもてなしよ、よくって?」
「おいおい、おそろしい魂胆があるんだな、それではおれは、饗応されて買収されたってわけか? 少将に申し訳ないぜ」
気の合う仲良しの恋人たちは、こんな怱忙そうぼうのうちにも、冗談を楽しんでいるのであった。

2026/05/03
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