~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
 
~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
第三章 恋の罪人 (八)
阿漕が部屋へ帰ってみると、帯刀はまだびっしょりと濡れたままで、震え震え、火鉢にかじりついていた。
「いったいまあ、なんだってそんなに濡れたの、傘はなかったの」
と阿漕は帯刀の衣を脱がせたり、髪や体を拭いてやったりしながら言った。
「傘はあるが、途中でえらい目にあったんだよ」
と帯刀は、雑色たちに乱暴されたことや、犬丸とおぼしき曲者に脅かされたことを言った。
「まあ、危ないこと・・・。少将さまのように身分の高い方が、危険な冒険をなさったわけね。もしものことがあったら、大騒動だったでしょうね・・・」
阿漕はさすがに、女のことなので、今になって怖ろしく思うようだった。
「大変な危険を冒して少将は来られたんだ。こんな深い愛情はめったにあるもんじゃないぜ、これで、つくづくわかっただろう」
「まあまあ、ってとこね。まだまだ「、これから先を拝見しなくっちゃ」
「まあまあ、とは何だ。あつかましいことにもほどがあるよ」
帯刀は、彼の衣を乾かしたり、絞ったりして働いている阿漕を、うしろから抱きしめながら言っていた。
「どうして女ってものはそう欲が深いのかね。女は、すぐつけあがるから憎らしい。もし少将が浮気なさっても、三十回ぐらいは、今夜に免じて勘弁してさしあげるのが、本当だぜ」
「なにさ、あんたったら、少将さまにかこつけて自分のことを言ってるんじゃないの」
「違うさ。お前の頭の回転は早すぎるよ ── いや、そういわれると、そんな気も、しないではないが」
と二人は笑い合い、
「でもよかったわ、少将さまが今夜、いらして下さって」
「姫君は喜ばれたかい?」
「それはもう。だってあたしもお姫さまも半分はあきらめていたんですんもの・・・」
「三日夜の餅は召し上がられたのか?」
「少将さまはおあがりになったわ。無事に結婚はすんだってわけなの ── 感激したわ、少将さまは、ほんとうに新婚でいらしたのね!」
「疑っていたのかい? まちがいなしの独身貴族だぜ」
「ようくわかったわ、だから、とても、嬉しかった「。お姫さまと少将さまは、文字通り、新郎新婦だったのよ。お姫さまによい結婚をおすすめ出来て、うれしいわ」
「少将をお連れしたおれに、まず、ごほうびを頂けてもいいんじゃないかね」
「あら、いやよ、ちょっと待って・・・」
「男というのは何だか損だな。ごほうびというのは、男からやるものだもんな」
こちらの部屋でも、新婚の部屋に劣らず楽しかった。
来た時刻が遅かったので、あっという間に夜は明けてしまった。
阿漕はまどろむ暇もなく、あたふたと起きて、朝食や、洗面の支度に、心もそらに走りまわっていた。
「どうしてそう、ばたばたするんだよ」
帯刀は、目をこすりながら起きて来た。
「ゆっくりしていられるものですか。今日は石山詣でに行った人々が帰って来る日なのよ。せっかくの新婚の朝にお気の毒だけれど、なるべく早くお帰り頂かなくては、でないと、お姫さまのお部屋に、人が出入りしたるすると、みつかってしまうじゃないの」
阿漕はひとりで気を揉んでいた。
少将も、つい寝過ごしてしまった。
「いそいで車を取りに遣ってくれ。こっそり、出て行くから」
といううちに、門のあたりで、はやかしましい人声がする。
「待て、人々が帰ったのではないか、それなら車は不用だ、人目に立つ」
と少将は制した。
「まあ・・・もう」
姫君は胸のつぶれるようあ思いでいる。隠れ場所もないような、こんな部屋に、少将を置いているので、もし人が来たらどうしようと思うと居ても立ってもいられない。
それは阿漕も同じである。
姫君たちの食事をととのえるために、阿漕は台所に行って、水仕女に、叔母のくれた白米を渡し、あわただしく、
「すみません、これをさしあげるから、炊きたての御飯とおかずを何か下さらないかしら・・・」
と頼み込んでいた。

2026/05/03
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