少将はまだ乾いていない衣を着て、震えながら、姫君の部屋へ行った。
格子をそっと叩く。
姫君は物思いにふけって、涙ぐんでいるところだった。それは少将が来ぬから悲しいというのではなくて、少将との楽しい一刻があまりにも短く、その他の辛い人生があまりにも長いことが悲しかったのである。
やがて北の方は帰って来る。もし、少将とのことが北の方に知れたら、なんと言われるだろう。姫君はそれが怖ろしかった。
阿漕は、いろいろ準備したこともみな、この雨でお流れになってしまったと思うと、うらめしいやら情けないやらだった。姫君の部屋へ来て、お慰めするうち、姫君が臥してしまわれたので、自分もつい、ものに寄りかかって、うとうとしていた。と、ほとほと格子が鳴っている。
驚いて、
「どなた?」
と寄っていくと、
「私だ。ここを上げておくれ」
というのは、まさしく少将の声である。驚いて、阿漕は上げた。入って来た少将の衣は、しとどに濡れていた。
(歩いておいでぬになったのだわ)
と思うと阿漕は感動で胸がいっぱいになった。
(やっぱり、少将さまは不実な方ではなかった!)
と誇らしいような気持で、しみじみ嬉しくて、
「まあ、こんなにお濡れあそばして・・・」
「惟成が、阿漕にいじめられると辛がっているものだからね。そう責められては気の毒だと、指貫の
括
りを脛まであげて
徒歩
かち
でやって来たのだが、倒れて土がついてしまったのだ」
少将が脱いだ指貫を阿漕が受取り、
「お体に毒でございます。みなお脱ぎ遊ばしませ。姫君の御衣をどうぞ、その代わりに。その間に、濡れたお召しものは干しましょう」
少将はそれで、衣も脱いだ。
阿漕はそれを受け取って、喜びにあふれながら、いそいそと部屋を退った。
少将は、几帳を押しのけて姫君のそばへ寄った。
姫君は羞ずかしいためか顔をそむけている。
「こちらをご覧下さい。ぬれねずみで、ひどい格好なんですよ。こんな姿で、よくも大雨の中を来てくれた、と私を抱きしめて下さったら、どんなに嬉しいことかと思いますがねえ」
と少将は姫君を抱こうとすると、ひんやりと姫君の袖がつめたい。
(泣いていたのか。もう来ないと思って気を落としていたのだろうか)
と思うといとしくて、
「私は雨にぬれたが、あなたは涙にぬれていたわけですね。── “何ごとを思へるさまの袖ならむ”というところですね」
と言うと、姫君は口ごもりながら、
「──“身を知る雨のしづくなるべし”ですわ。あなたはもう、いらっしゃらないと思って、わが身の不幸を思い知らされた気持でしたの」
というのも愛らしかった。
「・・・あなたが思い知らされるのは、不幸を、ではありませんぞ。私に、どれごど愛されているか、ということです」
少将は、もう姫君に口を開かせない。
阿漕は、三日夜の餅を、箱の蓋に美し気に盛りつけ、また、部屋へやって来た。
「どうぞこれをお召し上がり下さいまし」
と闇の彼方でそっという。
姫君に接吻していた少将は身を起こして、
「何だ、眠くてたまらないから、明朝にしてくれ」
と言った。
「いえ、こればかりは、やはり今夜、お召し上がり頂きませんと・・・」
阿漕は、几帳の下から、二人の枕上にそっとさし出した。
「何を食べろというのか」
少将が灯を近寄せると、綺麗に盛られた小餅である。
「三日夜の餅だな。誰がこうも小奇麗に仕立てたのか、こn姫君には世話をする人も以内と聞いたのに」
と少将は、思い、(心利いたことを・・・)と愉快になった。こんなことまで手配りして自分を待ち受けていたのかと思うと、悪い気は勿論、しない。
「三日夜の餅か。どうやって食えばいいのだ。作法があるのかね?」
と少将は阿漕に聞いた。
「あら、まだご存知ではございませんの?」
「なんで私が、私は、まだ独り身の男だよ。結婚もしていないのに、なぜ結婚式の作法を知っているんだ」
「少将さまは世間馴れしていらっしゃいますから、きっとご存じと思いましたわ」
「姫君の前でよけいなことを言うな。私はそれほどすれっからしに見えるかね?」
と少将と阿漕は戯れていた。
「花婿は、三つ召し上がるのがきまりらしゅうございますわ」
阿漕はそう教え、少将は、
「三つも食うのか、やれやれ。女はいくつだ」
「それはお好きなだけで結構でございます」
と阿漕は笑っている。
「結婚の作法らしいですね。おあがりなさい」
少将は姫君にすすめるが、姫君は羞ずかしがって食べなかった。
少将は真面目な顔で、三つの餅を食べた。
「蔵人の少将も、こうやって食ったのかね?」
「それは、お召し上がりなさいましたでしょう」
阿漕は満足して、少将の食べるのをながめながら、
「おめでとうどざいます。行末長く、お姫さまをお幸せにしてさしあげてくださいまし、少将さま」
「それはこちらこそのお願いだ。こっちは惟成を呼んで来て、姫君にお願い申そうか。ふつつかな少将ながら、どうかいつまでもお見捨てなく、変わらぬ契りを、と・・・」
姫君の部屋には、明るい笑いが満ちた。
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