~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
 
~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
第二章 夜の黒髪 (十九)
少将は通い慣れた恋人のように、格子をほとほとと叩く。
阿漕が急いで開けると、えならぬ好い香りがして、若い美しい男が無造作に入って来た。
その屈託ないさまは、いかにも身分の高い人間の、自信ある 挙措 きょそ だった。阿漕は、少将を初めて見たわけである。(少将の方は、前に阿漕をかいま見たことがあるが)

すがすがしい美青年で、それに愛嬌のあることといったら、そのにっこりと笑う顔に、阿漕は我にもあらず、ひきつけられたくらいである。
「まあ、三の君さまの婿殿より、ずっと、ずっと、好もしいお方!」
と阿漕はいっぺんで気に入った。
(これならお姫さまのお連れ合いにふさわしいわ。お姫さまも、この方なら、きっと、お気に入るわ)
「そなたが阿漕か?」
少将は気軽に声をかけた。
「いろいろ骨を折ってくれて、かたじけない。よろしくたのむよ」
「はい・・・はい」
阿漕は恐縮して、思わず、そう答えた。少将の態度や言葉には、物にとらわれない、らいらくな性質を暗示するものがある。
「姫君のご気分は、いかがか。── お悪いとうかがったが、今夜は私が看病してさしあげるから、阿漕はもう退ってよい。あけがた、ご機嫌うかがいに来るがよい」
阿漕はていよく追っ払われたのである。
「は、はい」
阿漕はあわてて、姫君にも挨拶して、部屋をそっと出た。
姫君は、阿漕にいて欲しくて、
「待って」
と言いたかったが、少将が几帳を排して近寄ったので、声が出なくなった。姫君は物に寄りかかって、うとりと臥していたのだが、男が傍へにじり寄って来るので、あまりにしどけない姿なのを恥じ、身を起こそうとすると、
「そのまま、そのまま」
少将はするりと、そのそばへすべりはいり、
「なぜ、お起きになる。お苦しいのではありませんか。何でも、私にお言いつけ下さい ── あなたを病気にさせた原因は、私なんですから、一命に代えてご介抱申し上げます」
「いえ、もう・・・」
と姫君は顔をそむけたが、昨夜のような追いつめられた気持ちはなかった。
今夜は、袴も衣も単衣も、人なみにととのい、香ばしい薫りもたきこめてるからだった。

「私のさしあげた単衣を身につけて頂いていますね」
少将はひめやかにささやきながら、姫君の黒髪を撫で、姫君の顔を、胸に押し当てる。
「夢みたいな気がします。おとついまでは、私は別の人生を生きていたような気がしてならない。ゆうべ、あなたにめぐり会ってから、私は違う人間になった。ゆうべから、私は生まれ変わった。長いこと手さぐりで探し求めていたのは、あなただったのだ。── それがわかりました」
少将は、身じろぎもせずにいる姫君に、
{聞いていられますか?・・・」
と、そっといってやさしく接吻する。
「あなたに会うために今まで生きていたのだ・・・そう思いました。探し求める人は、こんなところにいられたのか。そんな気持ちで、嬉しい驚きでした。私たちを引き合わせて下すったのは、仏天の御加護のせいだとしか思えません。私たちは、幸福な夫婦として、一生楽しく過ごせると思う」
「でも、わたくしは、この邸ではかえりみられない身ですわ・・・お気持ちは嬉しいのですけれそ、あなたのために、わたくしは何のお役にも立てませんわ」
姫君は辛そうに言った。
「わたくしは、父にも、まま母にも愛されていません。あなたを、手厚くおもてなしさいてくれるはずはありませんもの・・・」
「私は、そんなものは期待していない」
少将は笑った。
「それを期待しなければいけにほど、私は無力な男ではない。私の望むのは、あなただけですよ。あなたを、そのうち、私の邸に迎えたい、と思っています。そしたら、あなたにもう、なんの物思いもなくなるでしょう。私は、毎日、あなたを見ていられる」
少将は、静かに姫君の衣を方からすべらせて脱がせてゆく。
「お言葉の真実だというあかしを、何によって知り得ましょう?」
姫君は、あるかなきかの声でつぶやき、羞恥で消え入らんばかりに、身をすくませていた。少将は落ち着いて言った。
「いま、なにを言葉でしゃべっても、あくまであなたが、私をお疑いになるならば、どうしようもないと思います。無理はない、いかに総明でも、世なれぬあなたに、男の言葉のうそ・まことがかぎ分けられるとも思えない。でも、人間の真心は、匂うものです。言外ににじみ出るものです。そうでしょう?」
すると、姫君は、うつむいたまま、わずかに、うなずいた。血がのぼって、姫君の小さな耳たぶは、うす紅い貝殻のように見えた。
姫君にも。少将の誠意と気魄きはくは感じ取れたのである。
「ああ、わかっていただけましたね・・・では今度は、私の方が、あなたの愛と真心のあかしを知る番です。何によって見せて下さいますか、可愛い人・・・」
少将は物語の主人公のように、甘い雰囲気の演出を忘れない。世間知らずの姫君のため。
2026/04/23
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