阿漕は、叔母宛てに、手紙を書いた。
この叔母は、もと宮仕えしていたが、今は結婚して、夫は和泉の守である。
受領というのは、地方官だが、みな金まわりよく、わりに内福なものである。
叔母は、阿漕を養女にしたがって、いつもよくしてくれるのであるが、阿漕は、姫君を見捨てるのが嫌さに、この邸を出ないのであった。
「叔母さま、用のある時にだけお便りしてごめん下さいませ。
急なことで、ぜひ叔母さまのお力をお借りしなければならなくなったのです。急いでおりますので、くわしくは書けませんが、今夜、私の方へ、気のおける立派な方が、方違かたたがえにいらっしゃるはずなのです。それで、几帳を一つ、お貸し下さいませんでしょうか。お泊りになるのに、夜具もなく、私にはしれを借り出す手づるも、ほかにはございませんので、ついでに夜具もお願い出来れば、嬉しいのですけど、ご無理申し上げてすみませんが、とり急ぎお願いまで」
方違え、というのは、陰陽道おんようどうの用語である。
この陰陽道というのからして、現代のわれわれには縁遠いことになってしまっているが、この時代 ── 平安時代、十世紀をまん中にしてその前後二、三世紀の人々の生活や精神を、強く支配したのは、呪術や陰陽道だった。
神や仏の信仰は言うまでもないが、日常生活の細部を支配しるのは陰陽道である。
もともと、陰陽道は中国から渡来した陰陽五行説にもとづく学問である。自然や人間社会、大地の運行を占って、吉をまねき、禍わざわいを避けるというもので、これがいろんな俗信や迷信と絡み合って、生活上のタブーをたくさん生み出した。
個人生活ばかりでなく、国家の政治から方策にいたるまで、陰陽道は、はばをきかせることになったのである。陰陽寮という役所まであり、長官は陰陽頭おんようのかみという。
ホーキ星が現れたりすると、陰陽頭はこれを占って、何の故にこの異変が現れたか、国家は何を為すべきかを、朝廷に奏上したりした。
「陰陽暦数は国家の重んずる所」とされたのである。王朝の小説などに、
「物忌ものいみでこもっている」
などとあるのはこのことで、禁忌の方角や日時、場所など、こまかい点まで、陰陽道によって制約される。
日常の外出、あるいは洗髪、爪切りなどにいたるまで、暦をみて、吉日、(それにふさわしい日)を選ばなければならないのであった。それに背くと、禍があるといって、忌まれた。
これを迷信と笑うわけにはいかない。迷信には違いないが、どんな時代にも、それに類したことはあるのであって、当時の人々が、そういう生活をわずらわしく思っていたかというとそうではなく、人生のルールとして楽しんでいたに違いない。
方違え、というのも、陰陽道の考え方で、外出にしろ、旅行にしろ、自分の行くべき方向に天一神なかがみのいる場合、これは忌むべきことなので、いったん、ほかへ移ってそこから出かけることなのである。
「源氏物語」にも、源氏が方違えに紀の守の邸に行き、そこで、人妻の空蝉うつせみに会い、言い寄る場面がある。お互いさまのことなので、「方違えさせて下さい」と知人の邸へ行った場合、みな快く、「どうぞどうぞ」と招じ入れるのが習わしであった。
そうして、心こめてもてなす。いつ自分も、忌の方角が出来てお世話にならないとも限らないので、みなみな、快く迎えるのである。
人間は、自分でルールを作って自分で楽しんでいる動物である。
そんなに外出の機会のない女たちにとって「方違えの客人を迎える」ということは、またとない社交のチャンスであり、いそいそと迎えたであろうことは想像にかたくない。
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