~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
 
~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
第二章 夜の黒髪 (十四)
お母さまさえ生きておいでだったら、何かにつけて、こんな辛い目にはあわなかっただろうに、と思うと、情にやら、悲しいやらで、もう、死んでしまいたいと思うわ」
「ご もつと もでございますわ」
と阿漕も心から言った。
「ほんとうに、どんなにか、恥ずかしい思いをなすったことだろうと、ご同情申し上げます。でも、こちらの北の方は、お姫さまの継母でいらして、それがまた、並み一通りの意地悪ではない、ということは、少将さまもよくご存じのはずですわ。だから、そのへんのところは、ご心配には及びますまい。帯刀の手紙によれば、少将さまは、お姫さまに、とても愛情をおぼえられたそうでございますわ」
阿漕が慰めるように言うと、姫君は、ぽっと頬を赤らめて、
「そんなこ、あるはずはないわ、こんな、へんな身なりの貧しい女に、思いを寄せる方があろうとも思われない。だからこそ、少将さまは、わたくしに近づかないで、お帰りになられたのだわ・・・」
「何でございますって?」
阿漕は目を見張った。
「では、少将さまはお姫さまにお手も触れず・・・でも、単衣はお脱ぎになっていらっしゃるではありませんか」
「わたくしに、単衣がないのを憐れまれたのよ、こんな、羞ずかしいこと、女として堪えられますか」
「あの、少将さまが。── それはきっと、あの方のご愛情ですわ、お姫さまを愛していらっしゃったから、お心を尊重なさったのですわ。まあ、あの少将さまが、お部屋で一晩を過しながら、お手も触れず。しかも、衣を脱いで、、そして後朝の文も、こんなに早く、こまやかなご愛情じゃございませんか」
阿漕は、有頂天になり、うっとりした眼をさまよわせていた。
「お姫さま、もう、思い切って、少将さまと、こっそりご結婚なさいませ。そんな真実な殿方は、二人とあるものではありませんわ」
「とんでもないわ。北の方がどうおっしゃるかしら、縫物でさえ“自分のいいつけたもの以外の仕事でもしてみてごらん、この邸に置いてやらないから”とおっしゃるのだもの」
姫君はおそろしそうに言う。
「そんなこと、おっしゃるようなお邸は、こちらから捨てて出られた方がようございますよ」
家の人はるすなので、阿漕も気が強い。
「いくらなんだって、こんなひどい扱いを受けていられるお姫さまが、どこの世界にいられますか。今にすばらしい幸せに巡り会われたら、北の方がどんな顔をなさるか、見ものですわ。北の方は、お姫さまを一生飼い殺しみたいになさって、お針女でこき使おうというお心にちがいありません。ところがどっこい、私がそうはさません。お姫さまを北の方の及びもつかないご身分にしてみせますわ」
夢中になって阿漕がしゃべっていると、露がやって来て、
「竹丸さんが、お返事はいかがでしょうと待っています」
と言った。
阿漕は、少将の手紙を開いて、
「さ、早くご覧なさいまし、せっかくのお志ですのに」
と姫君に言った。姫君はうつ向いたまま、見ると、男らしい筆致の走り書きである。
「なぜでしょう。男は、まだ見ぬ恋にあこがれ、見たあとは、かえって恋がさめるものだといいますが、私は、あなたに会いそめてから、ますます恋が募ってゆくのです。あなたは、なぜかくも、私をお苦しめになるのか、恋したことは、率直に言って、今まで幾度かありました。
しかし、恋に苦しんだのは、あなたが最初です」
姫君ははらりと手から放して、ふたたび、頭を枕につけ、
「気分が悪いから、お返事は書けないわ・・・」
と、ふすまをひきかぶってしまった。

2026/04/18
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