その頃、姫君は、まだ、琴を弾いていた。
そうして、やがてふと弾き止むと、何かかぎりもない空しさが身のまわりにあふれてくるような気がして、ためいきをつきつつ、琴爪をはずした。
いまごろ、阿漕は、恋人と楽しい語らいをしているのかしら、と思う。仲良しの阿漕が、幸せな時を過ごしているのを、姫君は素直に喜ばしく思うものの、それとともに、言い知れぬ孤独の思いに捉われる。
「・・・ああ、どこかに身を隠す岩穴はないかしらん。・・・そうして何も考えず、何も苦しまない石ころのような人間に、なってしまいたいわ」
姫君はつぶやいた。
それを少将はのぞき見ていたのである。
少将は姫君が寝入ってしまうのを待ったいたのだが、若い男にありがちのせっかちで、「待つ」ということが出来ない。
じれじれしてしまう。おまけに、姫君の淋しそうな述懐を耳に挟んでしまった以上、恋の冒険兒として、手をつかねているわけにはいかない。
(えい、ままよ、押し入るまでだ ── 人はいないな)
少将は見届けて、格子を木の端ぎれでうまくこじあけた。そうして身を部屋の内へ入れた。こんなことには馴れている。
姫君は人の気配に驚いて振り向き、
「あっ」
と恐ろしそうに叫んだ。
小さい灯が、少将のいる端まで届かないので、大きな男の影におびえてしまったのだ。
「おしずかに」
少将はやさしく、低い声でなだめた。しかし姫君は、驚天動地の出来事に呆然として、わなわなと震えながら、返事も出来ない。
「おどろかせて申しわけありません。お許しを得ずに推参した無礼をお詫びしますが、決して怪しいものではありません。私は、この間からたびたびお手紙を差しあげている右近の少将・藤原道頼です」
そういいつつ、少将は巧みに、そろそろと姫君のそばへ近寄っていくゆく。
姫君は、こうも身近に男性が近寄るのは、父君のほか初めてのことで、動転しきっていた。
「あなたは世の中を憂く、つらいもの、悲しいもの、と思い込んでいられますね・・・それはとんでもないこと。あなたのようなお美しいお方が、そんなことを考えていらっしゃるなんて、私の胸は痛みます。あなたに、微笑みをとりもどしてさしあげたい。生きること、愛することの、何たるかを教えてさしあげたい・・・」
少将は優しい声で、姫君の心を溶けさせようと気をつかいつつ、とうとう、姫君の袖をとらえ、身を引こうとした姫君の黒髪の端を手に巻いて、抑え込んでしまった。
そうした灯影に面をそむける姫君の横顔の美しさに見惚れ、有頂天になった。
(想像した以上の美女だ! これほどの美人は、どんな大臣や公卿の姫君にも、いや、内親王さまの中にだって、いやしないぞ!)
「さっき、あなたは、岩穴の中にでも籠ってしまいたい、とおっしゃっていましたね」
少将の言葉に、姫君は、さっきからかいま見られていたのかと気付いて、恥かしさにいよいよ度を失ってしまった。
少将は、音もせず近寄り、ついに、姫君を腕の中に抱きしめてしまう。姫君は、驚きと羞恥心で、気が遠くなる気がしたが、少将が身にたきしめている、香のいい匂いでますます、目のくらむような思いに誘われるのであった。
「岩穴は、きっと、私の胸の中なのですよ。私を信じて下さい。私はきっとあなたを、世の波風から守ってみせます。私にしか、それは出来ません。なぜだとお思いですか? 愛しているからです。あなたが好きだ。お会いして、ひとしお、愛が深まったのをおぼえます」
姫君は汗もしとどになって震え、
「お離し下さい・・・そんな突然に」
「突然じゃありませんよ、私の誠意はたびたびの手紙で誓ったはずです」
「いいえ、もし、わたくしに少しでもお心づかいをして頂くことが、出来ましたら」
姫君は、とぎれとぎれの、可憐な声で、必死に訴えるのであった。
「こんなに思いがけずおいでにならないで下さいまし」
「しかし、あらかじめ申し入れると、ことわられるのにきまったいます」
少将は、姫君の声音や物のいいぶりが可憐で女らしいので、もっと返事させようと、余裕を持って対応している。
しかし、姫君は、少将の返事さえ、耳に入らぬようであった。
「殿方には、おわかりになりませんわ・・・こんなみずぼらしい身なりで、お目にかかりたくない女の気持ちが・・・」
「身なり・・・」
少将は、意表をつかれた。
「恥をうちあけて申しました。女には死ぬより、羞ずかしいことでございま。どうか、かわいそうと思われましたらお引き取りを」
少将は、姫君の古ぼけて萎えた衣を今さらのように見た。姫君の袿には継ぎがあたっており、ほんとうはその下に着るべき単ひとえもなく、あらわになる肌を、隠そう隠そうとしている。いま姫君は涙ぐんでいた。
継の当たっ衣を着た姫君! それもいい。
しかし、いかなる女心のふしぎか、姫君は貞操の危機も忘れ、みずぼらしい身なりを男に見られることを、死ぬほど羞ずかしがっているのだ。
少将は、そのユーモアの思わ、笑い出した。
(キモノなんか、どうでもいいさ、どうせ剥ぐんだから ── 男がキモノなmmか、見てるものか。美々しい十二ひとえのキモノより、姫君のこの、玉をのべたような肌がいくら美しいか。名香をたきしめたよりも姫君の、この若い女特有の仄ほのかに甘い清らかな肌や髪の匂いの方が、どれだけ男には好ましいか、知れはしない)
少将はそう思いながら、
「私が愛しているのは、あなた自身ですよ。そういう、率直なお言葉で、なおまた、あなたがいとしくなりました」
というなり、姫君を抱く手に力をこめた。
少将は、今は、強くこの姫君に人間味を感じ、ひきつけられてい。
飾りものの人形のような、ほかの姫君にくらべ、生きている若い女の手ごたえを感じさせてくれる姫君に、いまはニセモノでない愛をおぼえた。それは、姫君の持つ、女らしいユーモアからである。しかも姫君は自分ではそうは気付いていない。ただもう、貧し気な着物を男に見られた羞ずかしさに、冷たい汗を流し、わななき、すすり泣いている。
少将は、そっと姫君の涙を吸い取って、ささやいた。
「さあ、そんな身なりのことなど、忘れさせてさしあげますよ。私を信じて下さい、何もかも、私に任せて下さい。
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