~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
 
~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
第二章 夜の黒髪 (八)
「惟成、どうだ、首尾は」
少将は気短に言う。
「こんな雨の降る夜に来たんだ。無駄に帰すなよ。なんとか手配しろ」
帯刀は、頭を抱えたくなった。
「いや、これは・・・。この雨ですから、よもやと思っておりました。前以てご連絡下さればよかったのに、まただしぬけにおいでになったものですなあ・・・。というのも、姫君のご意向もまだわからず、どうもむつかしいところでございましてねえ」
むつかしいのは、真実、帯刀の妻なのであるが、さすがにそれは言えない。
「まあ、そう深刻な顔をするな」
少将は帯刀の背中をぽん、と叩く。
「ともかく、まあお車から、お降り下さい」
帯刀は、少将を案内して邸内に入り、牛車の方は、
「あすの朝、まだ暗いうちにお迎えにまいれ」
と言って帰した。
阿漕の部屋の入口で、帯刀は、部屋の間取りや、現在の状況をあわただしく少将に説明する。少将は言った。
「そうか、ではお前の妻は、いま姫君の部屋にいるのだな。彼女を姫君から引き離してくれ、そして、私を、姫君の部屋へ忍び込ませてくれ」
「何とかいたします」
「ともかく、人気がないのが気楽でいい、きっとうまくいくだろう。その前に、ちょっと姫君をかいま見させろ」
「どもその・・・もしかして、醜女しこめでいらっしゃると、がっかりなさると思いますが・・・」
「なあに、そのときはこの雨の中を、笠もかぶらず、袖をひっかぶって逃げてくばかりさ。あははは」
下長押しもなげしに帯刀は少将を入れた。姫君の部屋の前である。
宿直の留守番の侍が見つけたら、言いくるめようと思って、帯刀は、簀子縁に残って見張りをしていた。
少将が格子の間から室内をうかがうと、消えそうな灯がまたたいている。
几帳や屏風がないので、すぐさま、若い女二人が目に入った。ほんとうなら女の部屋は、几帳や屏風で遮られて、透かして見ることは出来ないものだが、この部屋には人なみな調度もそろっていないらしかった。
向かいあって坐っている女が、阿漕だろう。
姿かたちや、頭の格好が美しくて、白い単衣をかさね、上にはつややかな赤い練絹のあこめを着ている。
ものに寄りかかっている女性が、姫君であろう。白い衣の着古したものを着て、綿入れのうわ着の衣を、腰から下にひきかけている。
横を向いているので、こちらから顔は見えないが、頭の形、長い黒髪のかかり具合、それが白い衣に乱れ散るさまなど、少将がどきっとするほどの美しさだった。
二人は、むつまじく、何かの物語を話し合っているらしい。この物語の主人公はああだ、とか、男はこうだ、とか言っている。少将は胸をとどろかせ、もっとよく見ようと、格子に身をすり寄せたとたん、一陣の風が吹いて、灯が消えてしまった。
(ちっ)
と少将はひそかに舌打ちする。そして、
(まあ、いいさ。そのうち、ちゃんと目の前に見られるんだから)
などと思っていた。
「まあ暗い」
という声は姫君の方だった。やさしくて、気だかい声である。人柄は、声に出るものである。
「阿漕は、例の人が来てるんじゃないの? はやくいらっしゃい。待ちかねているわ」
「いいえ、帯刀のもとへ、友だちが用があって来てるんでございますよ。そのあいだ、私は、御前におりますわ。今夜はことに人少なでございますから、淋しくて、怖くお思いになりましょう」
「淋しく、怖いのはもう、なれているわ」
と姫君は、やさしい声で言っていた。
少将は、そっと格子の前を離れた。
簀子縁にいた帯刀が、音もなく寄って来て小声で、
「いかがでした。雨の中をお逃げになりますか、笠を持って来ましょうか」
「おいおい、お前はどうかして、私を姫君に近づけまいとするんだな。妻の味方も、ほどほどにしろ」
と少将は笑った。
少将は、心の中で、姫君の衣の古びているのを、いたましく思っていた。
おそらく姫は、貧しげな身なりで男に会うことを、恥ずかしく思うに違いない。
そう思うと少将の気質としては、着飾って傲りたかぶり、気位高い女よりは、自分を羞じる女の方が好ましかった。
「早く、お前の妻を呼び出せ。そうして、押さえつけて放さないでおいてくれ。いいな?」
と少将は言った。
帯刀は、ここまで来た以上、仕方ないと思った。
阿漕があとで、ぶつくさ怒ったり怨んだり、するだろうと思ったが、なに、女の思うように人生、何事もいくものか、と思っている。
女には女の論理があろうが、男にも男の論理があるのだ。
そうして、世の中、女の論理だけでやっていっては、いつまでもらち が明かず、よけい紛糾してしまうことは目に見えているのだ。八方ふさがり、出口なし、の姫君の現状を打開するには、まあ、こんな手段でも取らなきゃ仕方ないさ、と帯刀は肝ふとく、居直っている。
「ようございます。あの小うるさい、やんちゃ女は、私めが押さえつけて動かさないようにいたしますから、あなたさまもぬからずおやり下さい」
と帯刀は言った。
こういうところ、全く、よく気の合う主従なのである。
帯刀は阿漕の部屋にもどって、露に、阿漕を呼びに行かせた。
2026/04/12
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