~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
 
~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
第二章 夜の黒髪 (七)
遠くで、かすかに琴の音が聞こえる。
「ハハア・・・姫君だな」
帯刀は耳をすました。
「そうよ、今夜は人がいないので、のびのびして弾いていらっしゃるような感じだわ」
「いい音色だねえ。なつがしげな音色だ」
「六つの時から亡き母君がお教えになったの」
と阿漕は、姫君のことというと、自慢げになり、夢中だが、帯刀の考えているのは、この琴の音を、右近の少将に聞かせたい、ということだった。
「いや、実を言うと、今夜、少将を御案内しようと思っていた」
帯刀は、うちあけてしゃべった。
「だって、お前の手紙は、少将をお連れしろ、というナゾのように思えてさ」
「まあ、それは見当違いよ」
と阿漕はつん、としていうが、機嫌は悪くない。
「別に、そんなつもりで手紙を書いたんじゃないわ」
と阿漕は言ったが、実は、そうなってもよい、と思っていたのである。
「でも、もしかして、少将さまがいらっしゃるとすれば、今夜などは絶交の機会ね。人はいないし、お姫さまものんびりして、退屈いらっしゃるし」
「そうだろう? やっぱり・・・」
帯刀はむっくり起きて、少将を呼びに行こうかと思った。阿漕は釘を打つように、
「でも、いっときますけど、少将さまに、変な下心があっちゃ困るわよ」
「下心」
「御簾の外からお話しなさるだけ。美しくて風流なお歌をお詠みかけたり、お姫さまの琴の音に耳をかたむけたり、いろいろとやさしい、くどき文句なぞ、こまやかに語らって、お姫さまのお心を熔かして頂きたいの」
「こまやかに語らう・・・」
「そうよ、そうして、ほどよき折に、“ではこれで”とおたちになって頂きたいの」
「うーむ、手も握らずに」
「あったりまえでしょ」
「御簾越しに、そっと、触るだけでは、いけないかね」
「そんな失礼なことをしたら、お姫さまはどんなにびっくりなさるかしら。あたしが、ちゃんと見張ってて、お姫さまのお気持ちを傷つけるようなことは決して、しないんだから」
「・・・・」
帯刀は、心中、ためいきをつく。
とてものことに、あの、勇敢な恋の狩人たる少将が、「御簾ごしに」「こまやかに語らい」「ほどよき折に、ではこれで」と手ぶらで帰りそうにもない。
阿漕は少将の冒険を、どんなに騒ぎ立てることであろう。今夜、少将を案内しなくてよかった、と帯刀は思った。
「ま、どうせ、今夜は雨だし、さ。どcっちみち、来られるはずもないよ」
「そうね」
少将より、おれたちのことだ。もっとこっちえお寄り」
阿漕は喜んで、帯刀に軀をぴったりと寄せて来る。
「お前は、こういうときだけ、素直なんだね」
「いやぁん」
と、楽しい時間がはじまったところで、
「帯刀さま」と竹丸の遠慮がちな声が、戸の外でする。
「何だ」
「朋輩の方がみえています。ちょっとお仕事のことで話したいことがあると言われています」
(少将だな)
とすぐ、帯刀は察した。
おそらく、竹丸は、(朋輩が来た、と言え)と言い含められて、そう取り次いだに違いない。
帯刀は、阿漕を見た。
阿漕は、起きあがって、身づくろいしている。
「お友達なの? 今頃なんなの、どうせまた、お酒になるんでしょ。あたしは、その間お姫さまの御前にいるわ」
「うむ」
帯刀は、少将だと打ちあけにくい、さっきの話を聞いた以上、少将だとは言えないのだ。
少将は、今宵、姫君を「物にする」つもりで来ているに違いないのだから。
帯刀は、阿漕の手前、客人が朋輩とおもわせるように、
「よし、すぐ行くと言え」
と竹丸に言った。そして、阿漕が姫君の部屋へ行くのを見届けて、いそいで出てみた。
やはり少将だった。
ひどく人目を忍んで、供の数も少なく、やつした牛車に身を忍ばせ、来ているのだった。
2026/04/11
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