~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
 
~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
第二章 夜の黒髪 (三)
阿漕も帯刀も気をもんでいるうち、邸のあるじ、中納言が、古くにかけた 御願 ごがん ほどきに、石山寺へ 参詣 さんけい することになった。
邸をあげて、大さわぎである。
この時代、都より外へ出たことのない女たちにとって物詣でにかこつけた旅行ほど、嬉しいものはなかった。
女房たちがお供を願い出るに任せ、北の方はみな許可するので、われもわれもと行きたがった。老女から はしため ・・・・ に至るまで、まるで邸に残るのを恥のように、参詣のお供をするのだった。
邸のうちは、うれしげに華やぎにみちて、みなみな旅立ちの日を待ちかね、興奮している。
現代では、京都から琵琶湖のどばの石山寺まで、ほんのひとまたぎである。車でも電車でもあっという間だ。
しかし千年の昔では、それを牛車をつらね、馬や徒歩かちで前後をゆるゆると護って進む王朝の昔では、一日がかりの行程である。たとえば、「蜻蛉かげろう日記」の記述によると、まだ夜も明やらぬうちに京を出発し、粟田山、山科を越え、走井はしりいでお昼弁当をひろげる。この頃、旅館や料亭はないから、西部劇の野営や休憩のさまを想像して頂きたい。
牛・馬をつなぎ、よきところに幕を張り巡らして、敷物を敷き、野天で食事をしたためるのである。
(しかし、そういうことも都の人々、ことに貴族の婦人たちにとっては、いかばかりめずらしく、こよない気晴らしであったろうか! 薄暗い寝殿造りの、御簾みすや几帳の中に閉じ籠っている女たちにとっては、人生が一新するような、めざましい体験だったにちがいない)
そうして、逢坂山おうさかやまを越え、琵琶湖の岸にやっと着く。
見はるかす、海のような、ひろびろした湖! これも、山国の都びとには、感激のもとである。
景観だけでもすばらしいのに、ここから水路で、石山寺へ至るのである。船に乗り移る時の女たちのさわぎはどんなものであったろう。
やっと寺へ着くと、もう午後五時過ぎになっていた、と「蜻蛉日記」の作者はいう。冬ならとっぷり暮れたころである。
そんなにして出かけるのだから、少なくとも二、三日は寺におこもりして祈願する。
石山詣で、というのは、大和の長谷寺詣でと同じく当時の都の人には、生涯の大事件なのであった。
それゆえ、中納言邸に仕えの女房たちが、われもわれもと、石山詣でのお供を願い出れるのは当然だったのである。交通が安全でなかった頃、個人で気軽に参詣することはとても出来ない。隊を組んでの旅行でなければ、女の身はなおさら、かなわぬことだった。
北の方は旅行の計画を着々とすすめつうあった。0
「姫たちは四人だから、これは牛車一輛に乗せましょう。私は、殿と一つの車で・・・」
「あの、姫君四人よったりと申しますと」
「知れたこと、大君、中の君、三の君、四の君を一つの車に」
「では、落窪の姫は・・・」
「あの人は行かない」
北の方は無造作に言い捨てる。
弁の君、と呼ばれている女房が、
「でも、sの姫もお連れしてあげて下さいませ。おひとりで残られるなんて、お可哀そうでございます」
とつい、とりなすように言った。
北の方は、じろりと弁の君を見て、
「おや、さしでがましいことを。あの人がいつ外出そとでをしました。出先で縫物があるではなし、出歩きぐせはつけない方がよいのです。ああいう子は、るす番役にして、家に閉じ込めておくのがううのです」
北の方のあたまには、落窪の君に身なりをあらためさせ、化粧させ、女房たちにかしずかせて連れて歩くことなど、思いもうかばぬことなのであるる。家にいればこそ、古ぼけた綿入れですむものの、外へ連れ歩くとなれば、中納言家の対面もあり、姫君ひとりにたいへんな物入りである。北の方は、女にありがちな、けちんぼなのである。
そうして、また、女にありがちなことだが、腹をいためたわが子には、どんな出費も惜しまない、。自分は着のみ着のままでも、わが子にはりっぱに着かざらせたいが、ヒトの子にはビタ一文費消したくない、ということろがあるのである。
阿漕もむろん、お供の人数の中に加えられていた。この時代、美しい女房を召し使っていることは、貴族社会の見栄であったから、阿漕の美しさや、気転の利くとりなしは、三の君や、北の方に気に入られているのである。
それで、三の君づきの女房として美しい衣裳を着せられ、連れて行かれることになっていた。
しかし阿漕はちっとも嬉しくなかった。
阿漕は、落窪の姫君のひとりとり残されるのが気の毒で辛くて、自分ひとり、面白い目を見る気がしない。
いつも、せかされていそがしく縫物に追われている姫君こそ、気晴らしにお連れしたいものと、悲しく考えている。
姫君が行かれないなら、阿漕も、行く気はなかった。
それで、北の方の所へ行って、こう言った。
「大変なことになってしまいました。月のさわりになりました。残念ですが、おまいり出来ませんわ」
昔は、女性の生理はけがれとされて、不浄の身は神仏に参ることを許されなかったのである。北の方は、
「うそじゃないのかえ」
と阿漕をじっと見た。
「阿漕、お前はあの落窪の君が、家に残るのに義理立てて、そういうのだね? 行きたくないから、月の障り、などとうそをつくのだろう?」
「まああ、決してそんな・・・」
「それほど、落窪の君が大切なのかえ? 私たちは大切でないのね? どうもお前は、ちゃらんぽらんでいけないよ」
「めっそうもございません、第一、石山詣でのような、めったにないたのしみに、加わりたがらぬような人がいるものでしょうか。年とったお婆さんまで浮かれてお供を願っているじゃございませんか、私も行きたいのは山々でございますわ、でも・・・」
阿漕は、しんから残念そうに言ってみせた。
「それが急に、月の障りになるなんて、ほんとうに不運でございます。もし、何でしたらお供させて頂いてもようございますが、仏さまがお怒りになったら、どうしましょう」
北の方は、それでやっと疑いが晴れたらしく、
「しょうがないわねえ・・・」
と阿漕の代わりに、下働きの女童めのわらわに衣裳を着せて供に加えることにした。そして阿漕に、
「じゃ、お前は残っておいで。よく留守番するんだよ」
「かしこまりました」
と、阿漕は、ほっとしながら、答えた。
2026/04/08
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