~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
 
~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅹ』 ~ ~
== 『 お ち く ぼ 物 語 』 ==

著:田辺 聖子
発 行 所:文 芸 春 秋
第二章 夜の黒髪 (二)
阿漕が、手紙を持って姫君の所へ行くと、姫君は、あいかわらずせっせと縫物をしていて、
「まあ、阿漕、いいところへ来てくれたわ、 右中弁 うちゅうべん さまのお召しものの、いそぎの仕事なの、手伝ってちょうだい」
と言われてしまった。
右中弁というのは、中の君の婿である。その正装用の上着なのであった。
「急用でお出かけになるのですって」
「まあ、いつもこうなのですね、人をいそがせるのを何とも思っていらっしゃらない」
阿漕はあわてて、姫君の手伝いをする。
「そこを持ってて ── 折ってちょうだい」
「はい、折りました」
「針に糸を ──」
「あ、この色の糸では合いませんわ」
てんやわんやの騒ぎで、恋文どころではないのであった。
帯刀は、阿漕にこんなことも言ってみた。
「姫君が、絵がお好きならいいがなあ。 女御 にょうご さまのもとに、絵がたくさんあるので、それをお見せする、と申し上げれば、少将さまに打ち解けられるかも知れないよ」
「それは、絵はお好きよ、絵を見るのがきらいな女のひとって、いないわ」
阿漕はこたえた。
手から手へ書き写したり、肉筆で彩色したりするほかなかったこの時代、紙絵や、絵巻物を見るのは、こよないたのしみで、つれづれをなぐさめる最大のものだった。
映画やテレビ、雑誌にも匹敵する娯楽であったろう。
権力者や、金持の家には、有名な絵師に描かせた絵がたくさんあって、それらは人々への贈答に使われたりした。絵巻物や、物語冊子のたぐいは、貴族の財産でもあった。
そういえば、右近の少将は、今上帝の女御の兄である。父の左大将の長女の姫が、女御にまいっておられて、主上のご寵愛ふかく、時めいていらっしゃる。
そのお手もとには、さじかし、みごとな絵巻物の数々が集められていることと、阿漕は心動いた。
彼女は、面白い絵で、姫君をなぐさめてさしあげたいと思ったりした。
「お姫さま、絵巻物をごらんになりたいと思われませんか?」
「それは見たいものだこと・・・・」
と姫君は素直に言った。
「でも、どこにあって? お父さまのお手もとのは、みんなくいかえし拝見したし・・・三の君のところには、新しいものが集めてあって噂だけど、とても見せては頂けないでしょうし・・・」
「いいえ、お姫さま、誰が三の君さまのを借りるものですか、左大将の女御さまのものいですよ」
「まあ! あの女御さまの絵などがどうして・・・」
「女御さまの兄君が右近の少将さまですもの、帯刀にいいましたら、すぐですわ」
「でも、そのことで、右近の少将さまにお礼を申し上げたりしていると、いつか、のっぴきならず、おつきあいがはじまってしまうのじゃないでしょうかしら?」
姫君は、いたずらっぽくほほえんで、
「お前の大切な旦那さまは、もしかして、それをめあてで、── 言ったのではないかしら?・・・」
姫君は、さかしくも、看破かんぱしている。
阿漕は、姫君の頭のよさになぶとをぬぐ思いで、帯刀に会った時、言った。
「絵がとりもつ縁、ということになれば、── と思っていたけれど、お姫さまはちゃあん、とご存じだわ。── 少将さまの下心を見抜いていらっしゃるわ」
「下心とは何だ、人聞きの悪い」
しかし、男が女に持つ感情は、たいてい下心、で表現する方がぴったりくるのは、ふしぎである。
落窪の姫君の部屋には、そんなわけで、縫物を持ち込む人の出入りが多くて、阿漕は気にかかりながら、姫君に返事を書いて頂く機会がなかった。
2026/04/07
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