「阿漕! どこにいるのだい。三の君に、朝のお
手水
をさしあげなさい!」
と、北の方は、呼ばわっている。
「早く、おゆき」
と姫君は、気が気でないように言う。
「はい、・・・でも、このことはよくよく、お考え下さいましね、少将さまなら、ふさわしいお方でございます」
阿漕はそう言って、姫君の前を退がったが、姫君は返事もしなかった。
阿漕はその一方、帯刀に向かっては、
「あそび心で、少将さまがいられるとしたら、とんでもないお心得ちがいよ」
と強く言っておく。
「いつまでも見捨てず、お姫さまお一人を愛していただかなねれば、困りのよ」
「そいつはどうかなあ・・・少将も男だから、男は、一人の女だけを愛するって、むつかしいんだよ」
「おや、じゃ、あんたはどうなの、え!」
「おれはちがうよ、おれは・・・」
「じゃ、あんたは」男じゃないっていうの」
「そう
苛
いじ
めるな、ってば・・・」
帯刀も、阿漕にかかっては、かたなしである。
帯刀は、少将の邸へ参上して、
「まあ、気長にことをはこばなければ、どうしようもないですな。親でもちゃんとしていてば、話をまとめるのを急ぐでしょうが、なにしろ、父君の殿も、北の方に丸め込まれていられるようでございまして、この北の方というのが、姫君のことはこれっぽちも、かまわぬ人でございますから・・・・」
と、少将に言った。
「おいおい、誰が公然と婿になると言った」
少将は笑いながら言う。
青年にとっては、笑いながらいうことにすぎないのだ。
「私にこっそり、姫君を盗ませてくれ、というのだ。可愛ければ、こっちへ迎えるし、そうでなければ、世間がうるさいからといって、捨ててしまえばいい」
「それが出来るくらいなら、おれもやってみたいや ──」
「何だって?」」
「いえ、こっちの話でございます。そのへんのお気持ちをはっきり承っておきませんと。何しろ姫君についている女が、手に負えぬ、じゃじゃ馬でございますので、怖いのです」
「何といっても、かんじんのご本尊をおがんでからの話だ。姫君も見ないで、邸に迎えるかどうか、など、決められるものか。まあ、ともかく、姫君に会わせてくれ、せいぜい、大事にするさ」
と少将は言った。
「そういうおつもりでは、私めが、仲立ちの女にやっつけられますので」
「気むずかしい奴だな。精出して大事にする、といおうとして、言いそこなったんだよ」
「少将は笑って、早速だが、これを頼むよ、手始めに」
と手紙を渡した。
帯刀は少将のやり方が手早いので、阿漕がどういうかと、浮かぬ顔だった。少将の情事にはたいていお供して、そお強引な駆け引きを見ているので、これは、阿漕との間に立たされて、困ったことになるのではないかと、帯刀は心配だった。しかし、仕方なく阿漕にその晩、会って、
「じつは、少将からお手紙をことづかって来たのだがねえ」
と手紙を手渡した。果たして、
「まあ、かるはずみな・・・・。まだ、こちらの様子もわからないのに、お文だなんて。あんた、あることないこと、申し上げたんじゃないの、なさり方が軽薄だわ」
阿漕は、手紙に手も触れず、言う。
「姫君には、お取りもちしないでおいた方がよさそうね」
「そんなことないよ、やはりお返事もらった方がいいよ。悪い縁じゃないのだから、どんなんことで、どんな風になられるか、わからない」
阿漕はしぶしぶ、というふうに手紙を受け取ったが、内心、よかった、と思っていた。
さっそく姫君の所へ
馳
は
せつけて、
「申し上げました、例の、少将さまのお文ですわ。お返事をひとことでも」
と言った。姫君は首を振って、
とんでもないわ。お母さまがお聞きになったら、なんとおっしゃるでしょう」
と手も触れない。
「それじゃ、北の方さまが、お姫さまのことを、お心にかけて下さるとでもおっしゃるのですか。北の方さまをお気になさることはないと存じます」
と言っても、姫君は黙ったままなので、
「失礼します」
と阿漕は、手紙をひろげ、
紙燭
しそく
をとぼしてみると、ただ一首の歌が書きつけてある。
「君ありと 聞くに心を つくばねの
見ねど恋しき なげきをぞする」
(美しいあなたのお噂を聞き、まだお目にはかかっておりませんが恋いこがれて、ためいきをついています)
男らしい、さっぱりと力強い筆跡である。
阿漕は姫君の心を引くように、ひとりごとめいて言うが、姫君は取り合わないので、手紙を巻いて、櫛箱に入れ、退がってきた。
「どうだった、ご覧になったかい」
帯刀は待ったいた。
「そええがねえ、お返事もなさらないの。しかたないので置いて来たわ」
「なるほど、どういうお気持ちなのかな。こうして、たよりないお暮しをなさってるよりはいいだろうに、ねえ、おれたちのためにも、好都合なんだがなあ。もし、少将と姫君が一緒になられれば、これからもっと再々逢えるんだから」
帯刀がついと、阿漕の手をとらえよとするのを阿漕は振り払って、
「少将さまのお心が真実だとわかれば、そのうちには、お姫さまもお返事なさるでしょうよ」
と言った。
姫君は、阿漕が立った後も、少将の手紙を見る気もおこらない。親の庇護もない、貧しいうらぶれた女のもとへ、真実をもって通う男など、あとうとも思えない。
世の男は、女の家の富や権力ばかりに関心がある、と姫君は聞いたことがあった。話に聞く、三の君のはなやかな生活環境ならばこそ、男も通って来るだろうが、この寒空にうすい衣で震えているような女に、どこの物好きが寄って来るというのだろうか。 |