阿漕が、西の対の用をすませて姫君のところへいってみると、姫君は乏しい灯を前に、筆をとって、物思いにふけっていた。
書きちらされたものを、阿漕が見ると、
「世の中に いかにあらじと 思へども
かなはぬものは 憂き身なりけり」
とある。
(もうこんな世の中、生きていたくないと思うけれども、それかといって、どうしよもない。思うにまかせぬ、はかない身なんだわ・・・・)
というような意味であろうか。
阿漕は胸が詰まったが、声をはげまして言った。
「いけませんねえ・・・お姫さま、こんな、悲しい歌。どうしてそんなことをおっしゃいますか、生きていればこそ、また、楽しい目にもあえるのでございますよ。面白いこと、嬉しいこと、どっさり、この先、待っているのでございます・・・・」
「どうしてわかるの?」
姫君は、筆をおいてつぶやいた。
「この先、いいことが待ってるなんて、信じられないわ」
「いいえ、いけません。ほんとうに、あるんでございますから・・・・」
阿漕は、なぜか、ぽっと頬をあからめた。
「お姫さまとめぐり会うのを待っているよろこびや、嬉しいことが、きっとあるにちがいありませんよ」
「
阿漕がそういうなら、そうかもしれない。わたくしも気永に待つことにしますか。── でも、どんな喜びがあるというのかしら。わたくしにとって、ほんとうの喜びというのは、亡くなられたお母さまが、生き返ってくださることだけよ ── でも、無論、そんな望みは叶えられるはずもないことなんだし。そうしたら、そのほかの嬉しいことって何かしら?」
「まあ、よい婿君がお通いになることじゃございませんか」
阿漕は思わず、力を入れて言った。
「お姫さま。女の運命は、婿君次第ですわ。お母君に死に別れられたのは、取り返しのつかぬご不幸ですけれど、ありがたいことに、女は、よい結婚さえすれば、不幸は忘れられて、幸福に取って代わるものですわ」
「それは、お前の体験談なの?」
姫君は、いたずらっぽく言う ── すると、白い頬に、愛くるしい笑くぼが浮かぶ。
「ま、いやですわ、何も、私のことじゃありませんよ」
阿漕はなお赤くなった。
「何にしても、この阿漕が、きっといい婿君を、お引き合わせいたしますわ。三の君さまに負けぬようなりっぱな公達を ──」
「夢のような話ねえ・・・・。こんなわたくしの所へ通われる物好きな殿方はなくってよ。かりに、すばらしい殿方が現れて下すったとしても、お母さまほど愛して下さるはずもないし」
姫君は、頑固な人柄ではないが、こういう問題にかぎっては、意見を固執する。
「尼にでもなってしまいたい気持だわ・・・・でも、たとえ尼になっても、この邸を出て、ひとりで生きてゆくすべはないのですもの。ねえ、阿漕」
「なんでございますか」
「お母さまがお迎えに来て下さらないかしら、と、このごろ、ときどき思うことがあるわ」
「めっそうもないことでございます」
姫君の孤独な、なんの慰めもない生活の苦しさはよくわかるが、こんなに若く美しいのに、「お迎えを待つ」とまで考えるなんて、とんでもないことである。
「そう、いちずに思い込んでおしまいになってはいけません。また、きっとよいこともございますから」
姫君は、物思わしげに、再び書き散らしている。阿漕がそれとなく覗き込むと、
「われに露 あはれをかければ たちかへり
共に消えよ 憂きはなれなむ」
(私を少しでもあわれと思われるなら、もう一度、この世に戻り、私を共に連れて死んで下さいませ、お母さま。この世の苦しいことから逃れられるでしょうから)
阿漕は、日一日と、姫君の心が滅入っていかれるようにみえるのが辛くてならない。
かといって、先刻、典薬の助の従者がやってきたこと、典薬の助がこの間のうちから執拗に言い寄っているころなど、あまりにも、なさけない話なので、姫君の耳にさえも入れていなかった。
阿漕は、姫君の相手として、典薬の助など眼中にない。不如意ふにょいな生活だからといって、理想の水準を下げることは、阿漕は、女の誇りからいっても出来ないと思っている。
むろん、姫君も同意なさると思っているのだった。
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