その時、遠く離れた母屋の部屋で、
「阿漕! 阿漕はどこ?」
と呼ぶ声がする。北の方の大声である。
「そら。お呼びになった、次はあたしだわ」
と露がとびあがった。
果たして
「露! どこへいった? また、落窪の間へ行っていると承知しないよ、この忙しいときに! 露!」
と腹立たしげな声が、だんだん近づいて来る。露はあわてて、出ていく。
阿漕も腰を上げた。
「では、お姫さま、ちょっとあちらへまいりますわ。── ほんとうに、ゆっくりお話申し上げることも出来やしない。三の君のところへ、私は上りとうございませんのに・・・・」
阿漕が嘆息すると、姫君はなぐさめて、
「でも、そのおかげで、お前は、恋人とめぐり会えたじゃないの。あちらを悪くばかり言えないのではありませんか」
といたずらっぽく、微笑む。
「まあ、いやでございますよ、そんな、おからかい遊ばしては」
勝気な阿漕が、ふと顔を染めた。
と、はやすぐ近くで、
「阿漕! 呼ばれたら、すぐ来ないかい」
と北の方のいらいらした声がする。
「はい、はい!」
阿漕は大声で答え、
「では、また、のちほど」
と、部屋をそっとすべり出た。
姫君は箸をおいて、高坏をおしやった。
小さな灯が、寒々とした、なんの飾りもない部屋を照らし出す。板の間は、冷気を伝えて、今宵も、薄い
ふすま
では寝にくいかも知れない。
ただ華やかな彩りは、男ものの装束の布地である。
異母姉妹の婿君たちのものだ。
姫君が、この屋敷に引き取られたのは、九つの年のことだった。母君が亡くなった後である。父・中納言は、わが邸へ、母のない子を引き取ることにした。
中納言の邸には、古い妻の北の方がいた。
もっとも、だからといって北の方が本妻というのではなく、亡き母君が、中納言の愛人だったというわけではない。
この時代の貴族は一夫多妻の風習なので、男が通う先の女はみな本妻、妻の格や地位に等級や順番はないのである。子供をもうけなくても、妻のひとりにはちがいない。
ただ、親の庇護や、連れ添う期間の長短や、子供の数、さらには、愛情の深さ浅さで、とくに馴れしたしむ妻と、縁うすく終る妻ができるのだった。
北の方は、すでに中納言の邸に迎えられて同居しており、夫婦としての実績は久しい。かつ、男の子を三人、女の子を四人も生んでいる。
そうして、中納言邸の女あるじとして、絶対の権力を手にしている。そういうところへ姫君は迎えられたのである。
(小さいときは、なにごころもなく過していたのだけれど・・・)
と、姫君は思う。
童女のころは、無邪気に、異腹の姉妹たちにむつんで遊んでいたのだが、そのうち、いつとなく隔てられて、物ごころつくころには、落窪の君、と呼ばれて、家族なみな扱いさえされなくなっていた。
折々の心のなぐさめは、亡き母君が手ずから教えて下さった筝そうの琴である。
もの覚えがよい、と母にほめられことも、今では、はかない思い出になった。姫君は、孤独の憂さを払いたいときは、ときに弾き鳴らすのである。
幸いなことに、おの趣味は、禁止されることはなかった。というのは、三男の三郎と呼ばれる十歳の息子が、音楽好きだというので、北の方は、
「三郎にも教えてやっておくれ」
と言ったからである。
姫君は、三郎に琴を教える、という名目が出来たので、折々、琴を弾きすさぶ。もし、こんな楽しみがなかったら、姫君は淋しさに堪えられなかったかも知れない。
それと、もうひとつの趣味は、ひまのあるに任せて習いおぼえた裁縫である。
けれども、これは、なまじない姫君が器用で、才能があったために、却って自分自身を苦しめることになった。
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