日本がバルブ経済崩壊で苦しんでいる頃、世界でもまた大きな変動が起こっていました。それは共産主義陣営の崩壊です。
朝鮮戦争、ベトナム戦争、キューバのミサイル基地建設、アフガニスタン侵攻など、戦後、共産主義(と社会主義)を世界に広め、自国陣営を拡大するために、多くの戦争や危機を作り出して来たソヴィエット連邦(ソ連)でしたが、昭和五十六年(1981)、アメリカのレーガン大統領の登場によって、体制の変更を余儀なくされます。
レーガン政権が大規模な軍拡競争に乗り出すことにより、ソ連の経済がその競争に耐えきれなくなったためです。
昭和六十年(1985)経済が行き詰まったソ連の国民の間に自由を求める空気が広まる中、共産党中央委員会書記長(ソ連のトップ)となったゴルバチョフはまず経済を立て直すため、市場経済の導入や情報公開を試みました。その波はソ連の衛星国家にも広がっていきました。
平成元年(1989)五月、ソ連の衛星国家の一つハンガリーがオーストリアの国境を開放しました。一九四〇年代から長らく、東側(共産主義陣営)と西側(自由主義陣営)の間に築かれていた「鉄のカーテン」(イギリス首相チャーチルの言葉)に初めて穴が空けられた瞬間です。この時まで東側の国民はいかに希求しようと、西側の国に行くことは叶いませんでした。ハンガリーの国境が開放されたことを知った他の共産守護国の国民もぞくぞくとハンガリーからオーストリアへ入国(脱出)しました。特に多かったのがドイツ国民で、ハンガリーからオーストリア経由で西ドイツに入国した人はわずか三ヶ月で二十万人にものぼりました。そんな混乱の中、十一月九日、東ベルリンと西ベルリンを隔てていた「ベルリンの壁」が突如、東ドイツの民衆によって破壊されたのです。
ソ連はアメリカとの軍拡競争を諦め、同年十二月、地中海のマルタ島で行なわれた米ソの首脳会談で、東西冷戦の終結が宣言されました。ここに、四十年以上続いた東西冷戦は終わりを告げました。
翌年、東ドイツ政府は西ドイツ政府に吸収され、ドイツは四十五年ぶりに統一国家となりました。そして他の東欧諸国で共産主義政権が次々と倒れていく中、平成三年(1991)、ついにソ連も崩壊しました。大正六年(1917)、ロシア革命で世界初の共産主義国家が誕生してから、七十四年後のことでした(ソヴィエト連邦はロシア革命の五年後の一九二二年に成立)。
マルクスの唱えた共産主義に基づいて、ソ連をはじめ数々の共産主義(社会主義)国家が誕生しましたが、幸福になった国民はいませんでした。すべての国が一党独裁の専制国家となり、言論の自由は一切なく、多くの国では粛清によって夥しい数の国民が殺されました。二十世紀で最も人を殺したのは、戦争ではなく共産主義国家による人民粛清でした。共産主義国の民衆は貧しく、一部の特権階級が富と権力を独占しました。総括すれば、共産主義とは、二十世紀に行なわれた壮大な社会実験であり、それはことごとく失敗に終ったといえます。
ソ連崩壊の後、世界に残る共産主義国は中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国など数えるほどになりましたが、これらの国でももちろん国民には言論の自由はありません。中華人民共和国は近年、GDPの上ではアメリカに次ぐ経済大国となったとされていますが貧富の格差は凄まじく、十億を超える人々が今も貧困に喘いでいます。中国共産党政府はそうした貧困を解消する努力をせず、自国領土を広げるために、毎年大規模な軍拡を続けています。北朝鮮はというと、「金王朝」と呼ばれるほどの金一族による独裁体制が続き、国民の多くが飢餓で苦しむ中、巨額の金を使って核爆弾とミサイルの開発を続け、周辺国を恫喝しています。
「共産主義緒は人を幸せにしない思想である」という結論がすでに出ているにもかかわらず、現代でもまだその思想は世界に蔓延っています。。現在の自由主義国のいわゆる「リベラル」と呼ばれる人々の主張の中には、共産主義思想をその根底に持つ、あるいは共産主義を理想とする思想に近いものが含まれています。 |